第三十七話「黒い囁き」
 夕日が沈んで夜のとばりがおりる。
 部屋の明かりもつけず、煉は天井を見上げ続けていた。
「……」
 何もする気になれなかった。ちらっと傍らの柳華を見ると、魂が抜けたような顔をして
いた。自分と同じでとつぜんの別れ、それも無理矢理引き離されたことがかなりショック
だったのだろう。フェリスも何もできなかった事が悔しかったのか部屋に引き籠もってし
まっている。
―― 別れか。ここ最近じゃ考えたこともなかったな
 いつからそう思い始めたのかはわからない。初めは輝きを早く集めさせてとっととおさ
らばと思っていたはずだった。それが気づけば一緒にいることが当たり前になっていた。
うるさいミュウに朝起こされ、朝食をせがまれ、バイトへ行き、帰ってきたら夕食を作っ
てやる。柳華と3人で、平凡だがとても平和で幸せを感じる日常。ずっとそんな生活が続
くと思っていた。
「……はぁ〜」
 何度目かもわからないため息と同時に腹の虫がなった。
「7時か。どうりで腹が空くわけだ。おい柳華、飯はどうする?」
「……いらない」
「そういうな。材料もないからカレーになるがいいよな?」
「いらないっていってるでしょ! 何であんたはそう平気でいられんのよ! ミュウが無
理矢理連れて行かれたのよ! 悲しくないの?怒らないの?!」
 胸ぐらを掴み上げられる。煉はその手を優しく掴み、
「平気なわけないだろ。いきなり引き離されてはいそうですか、と納得する俺じゃない。
でだ、飯を食ったらフェリスに頼んでフェリーナに行こうと思ってるんだが、どうだ?」
 笑ってみせた。柳華は涙が滲んだ瞳を丸くさせる。
―― 向こうに連れて行かれたなら会いに行けばいい。
 夕食を作ろうとして考えついた答えがこれだった。
「フェリスがいるなら可能なはずだ。どうだ?」
 もう一度訊く。柳華は涙を手の甲で拭うと、
「い、行くに決まってるじゃない! そうと決まったら早速ご飯よ、ご飯! あたしはフ
ェリスに話してくるから」
 そう言ってフェリスの部屋に駆け込んでいった。
「おいおい、あんま埃たてると叱られるぞ……って聞こえてないな、あれは」
 苦笑混じりに肩をすくめる煉。
「元気になったならいいか。さてと、作るとするかな」
 服の袖を捲りながらキッチンに向かう。きっと泣いているだろうから、食べたら思わず
笑顔になってしまうようなカレーを作って持って行ってやろう。
 後は好物のヨーグルトも。冷蔵庫の脇に置いてあるヨーグルトを手にする。
―― 妖精界にはありそうもないからな。
 ヨーグルトを目にしたミュウの喜ぶ顔が目に浮かんだ。

 それから1時間後にカレーは完成。初めは食べてからの予定は、柳華のミュウと一緒に
食べる提案によって急遽変更になった。ご飯とカレーをタッパーに詰め、他にもミュウの
好きそうな物を鞄に入れていく。
「よーし! これだけあればミュウも喜ぶわよね」
「だな」
「きっとミュウも喜ぶと思う。じゃ、行こっか」
 フェリスが指で何かの文様を描く。燐光が宙に舞い始めたあと床に大きな光の魔法陣が
浮かび上がり、次の瞬間3人は部屋から姿を消した。

 3人が出発する20分前のこと……。

 連れ戻されたミュウは自室のベットの上で膝を抱えていた。もうどれくらい泣いたのか
自分でもわからない。
「レン〜。リュウカ〜」
 何度呼んでも二人とはもう会えない。成妖は外界へ行くことはできないから。それが掟。
だけど割り切れるほどミュウは大人ではなかった。
「会いたいよ。…ひく……ひく……リュウカ〜……レン〜」
「ミュウ……」
 久しく訊いていなかったシェザールの声。
「そんなに落ち込まないでくれよ」
 優しく頬を撫でてくれる。何もなければ嬉しかったが、今のミュウにはその優しさが煉
と柳華を思い出させた。
「やめて!」
 顔を上げたミュウは肩にいたシェザールを払いのける。まだ幼精の彼は自分と同じ大き
さの手に叩かれて地面に転がった。
「あ……シェ、シェザールが悪いんだから! でてって!」
 大声で叫んでまた膝を抱える。少ししてから扉の閉まる音が聞こえた。
―― ごめんね。ごめんね、シェザール……。
 自分の身勝手でシェザールを傷つけてしまったことを心の中でわびる。と、間をおかず
に再び扉が開いて、閉まった。
―― シェザール?
 心配で戻ってきてくれたのだろうかと膝を抱えながら耳をすませる。小さな羽の羽ばた
く音が聞こえた。入ってきた主は右肩に着陸すると、
「うふふ。感じた。あなたには憎い人がいるんだね。大好きな人から引き離した……あの
二人が……そうでしょう?」
 耳元にそっと囁く。
「あ……」
 なんだろう。その囁きを聞いたとたん、急にお母さんと長老様が憎くなってきた。
「どうして引き離したと思う? それはね、あなたが嫌いだからだよ」
「おかあさんとちょうろうさまは……ミュウが……嫌い?」
「そう。あなたの好きな人も引き留めようとしなかったでしょ? それはその人もあなた
が嫌いだから、いなくなってほしかったから」
 記憶がフラッシュバックする。必死に助けを呼んでいたけど、煉も柳華も何もしてくれ
ていなかった。
「みんなみ〜〜〜んなあなたの事が嫌いなの」
「……」
 声を聞く度にミュウの心と記憶が黒く染まっていく。
「ねえ、どうしたい?」
「許せない」
「そうそう。許せないよね。許せなかったらすることはひとつ! さあ、いきましょう」
 ミュウはゆっくりと立ち上がる。その目にはいつもの無邪気な輝きはなかった。代わり
にあったのは憎しみに濁った冷たい瞳。自分を無理矢理大好きな人から引き離した人への、
何もしてくれなかった大好きな人への深い深い憎しみ。
 肩にいる幼精によってミュウの心は黒い憎しみに囚われてしまっていた。
 立ち上がったミュウはゆっくりと流れるような動きで右手をあげる。ただそれだけでミ
ュウはフェリーナから外界へと移動した。
「………」
 足下に広がる人の世界。楽しそうに笑っている家族・恋人・友人。
「……っ!!!!」
 見ているだけで腹が立った。自分はこんなにも辛い思いをしているのになぜああも楽し
げに、幸せそうに笑っているのか。
「さあ、やっちゃえ!」
 肩にいる黒の服を着た幼精の一言が引き金となった。両腕を広げたミュウは大声で叫ぶ。
「みんな……みんな嫌いになっちゃえーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」
 ミュウの全身から黒い光の波が世界中に向けて放出された。

 結婚して子供も出来て幸せな毎日。
「ねえねえ、ママ、ママ!」
 可愛い一人娘が運ばれてきたお子さまランチを見て目を輝かせている。今日は家族揃っ
て娘の洋服を買いにデパートへ行った。どれもこれも可愛くて娘にあうが、予算を考えて
いるうちに遅くなってしまい夕食はレストランになったというわけだ。
「美味しい?」
「うん♪」
「そりゃあよかった」
 夫も娘の笑顔を見て笑う。とても幸せ………じゃない。
「ポロポロ零してるんじゃありません!」
 食べ零す娘を見ていたら急に許せなくなった。
「そこまで強く言う必要があるのか!」
 夫が言う。自分の意見を否定する夫が見ているだけで腹立たしい。
「ママのバカ! それからそれからパパなんてだいきらい〜〜〜ぃ!」
「俺だってお前のような娘いるものか!」
 些細な一言から平和だった時間が一瞬にして崩壊していく。

 黒い光の波を受けた人々は互いを憎しみ、争いを始めだした。

 ミュウの憎しみが人々に感染していったのである。

 そして、憎しみの感染は全世界に広がり、世界規模の憎しみあいが始まった。


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