三十二話「選択」
 ミュウが時の流れに入ってからすでに一週間がたとうとしていた。何も映らない―砂嵐
状態の―水鏡にフェリスは大きなため息をもらした。
「やっぱり無理か」
 千里眼の水鏡なら時の流れも見られるかと思ったが結果はこの通りだ。時の流れを見る
ことは叶わなかった。
「無事……だよね」
 文献には主に辛い体験談が書かれていた。
 どんどん衰弱していく体。霞む視界。そして最後には体が冷たくなっていくという。そ
れは着実に死に近づいているということだった。
 きっとミュウはこの文献の著者と同じ苦しみを味わっているだろう。できることなら代
わってあげたい。何一つ助けてやれない自分が歯がゆくて胸が痛んだ。
 何も映し出さない水鏡を見上げ、
「お願い、ミュウ。無事に帰ってきて」
 心からフェリスは願った。
 ミュウが無事に帰ってきてくれることを。またあの元気な笑顔を見せてくれることを。

 そして、文献の最後に書かれていた事が現実にならぬよう強く願った。

 強く…強く…強く…。

 柳華に外出の許可がおりた。ただし2時間という時間制限付きだ。まだ頭の包帯も取れ
ていないのだから制限は当然のことだが、
「本当の本当の本当に本当なんですか?」
 それでも外出許可と聞いた柳華は瞳を輝かせて喜んだ。
「ああ。全身の打撲もだいぶ治ってきたから大丈夫だろうということで許可してくれた」
「今からでも大丈夫ですか? 私、早く外に出てみたいです!」
「だろうと思ってすでに準備しておいた」
 そう言って煉は病室の外に用意しておいた車椅子を持ってくる。どうせこうなるだろう
と予想して看護士に手配していたのだ。
「はいはい、抱っこです」
 両手を差し出してせがむ柳華。苦笑しながら煉はお姫様抱っこで抱えると、そっと車椅
子に座らせた。
「では、出発進行です!」
 大はしゃぎで柳華が前を指さす。
「どこへ行く気だ?」
「とにかく外へです。外へ出られるならどこでも」
「となると……近場の公園がいいか」
 目的地を決めて煉は車椅子を押して施設を出た。

「わぁ〜」
 柳華は初めての外の世界に感動した。
 太陽の光、風の匂い、小鳥達の囀り。どれも病室にいるときとは違って生き生きしてい
るように見える。
「初めて外に出た気分はどうだ?」
「感動です!あ、あれが自動車ですね。本物のわんちゃん、可愛いです!」
 見る物全てが新鮮で刺激に満ちあふれていた。文字通り目を輝かせてきょろきょろする
柳華。
「おいおい、あんまりはしゃぐと落ちるぞ」
「だってだって…ああ、あのわんちゃんに触ってみたいです」
「噛まれるぞ」
「う〜」
 柳華は小さく唸った。
 煉の言うように飼い主以外には懐きそうにない犬だった。侵入者は許さないとでも言う
ようにじっと見据えてくる。
「……諦めます」
 がっくり肩を落とす柳華。それを見た煉は考え込むように空を見上げると、
「なら、あそこへ行くか」
 そう言って道を曲がった。
「あれ、確か公園はあちらの方では……?」
「犬に触りたいんだろ」
「はい。触りたいです。わんちゃんだけじゃなくて猫ちゃんにも」
「それならこっちだ」
「はぁ。そっちへ行くとわんちゃんや猫ちゃんに触れるのですか?」
「ああ、任せておけ」
 いつものむっつり顔にわずかな笑みを浮かべながら煉はVサインをした。

 ガラスの向こうには可愛らしい子犬や子猫がじゃれ合っている。煉が連れてきてくれた
のは小さなペットショップだった。
「か、可愛い〜♪」
 じゃれ合う子犬や子猫のあまりの可愛さに思わず柳華は身もだえした。
「少し待ってろ」
 そう言って煉は店に入ると、何やらこちらを見ながら店員の女性と話して戻ってきた。
「子犬や子猫を触らせてくれるとさ」
「ほ、ホントですか!? やったぁ〜!」
 嬉しさのあまり柳華は煉に飛びついた。車いすから転げ落ちそうになるのを慌てて受け
止める煉。
「おいおい、はしゃぎすぎだぞ」
「嬉しいときは誰だってはしゃぎますよ。煉さん、ありがとうございます」
「あ、ああ。ほ、ほら座れ。店の中に入るぞ」
「はい!」
 店の中に入った柳華は消毒液を両手に吹きかけられてから子犬を渡された。
 子犬は不安そうに見上げていたが、優しく撫でてくれる柳華に安心したのか身を預けて
くる。小さくて、柔らかくて、暖かくて、とても可愛くて、愛おしいと思えた。
―― 赤ちゃんを抱くときのお母さんもこんな気持ちなのかな
 優しく子犬を抱きしめながら煉を見上げる。
「よかったな」
 優しさに満ちた大好きな人の笑顔。心の底からこの人を好きになって良かったと思った。
いつまでもこの生活が続けば、とも。
 けれど……。

1時間ほど子犬や子猫たちと戯れたあと、自然公園にやってきた時、それはやってきた。

 いきなり世界の時間が止まり、二人の前に大きな懐中時計が出現したのだ。その中から
出てきたのはボロボロのミュウ。地面に落下したミュウを、煉は慌てて掌に載せた。
「おい、いったい何があったんだ! 返事をしろ!」
 信じられないほど冷たいミュウの体に最悪の事態がよぎる。
「あ……レン」
 瞼を震わせながらミュウが目を開けた。ほっと胸をなで下ろすが、すぐに煉の心に怒り
の感情がわき上がった。
「いったい何をしてやがった! フェリスがのヤツ、嘘を言ったのか!」
「ううん。おねえちゃんはなにもわるくない。それよりもほら、ミュウ……がんばったよ」
 ボロボロになった小さな両手を持ち上げると、そっと開く。そこには小さな虹色の輝く
小さな四角形が中空に浮いていた。
「これは……まさか」
 期待と不安の入り交じった声で問う煉。
「リュウカの……キオクの……ウツワ。これでね、ミュウたちをしってるリュウカがかえ
って……くるんだよ」
「記憶の器……」
 煉は気づかれないように柳華を見た。心配そうな顔でこちらを見ている。ミュウの事を
案じているのだろう。
―― これを柳華に戻せば戻ってくる……だがそれは……。
 今の柳華がいなくなる事を意味している。重い現実が煉の心を締め付けた。
「はやく……リュウカに……」
「……できない」
「どう、して……なんで!?」
 震えた手が煉の指を握りしめる。
「確かに俺達がよく知る柳華に戻ってもらいたい。だが、今の柳華も失いたくないんだ。
もう誰も……失いたくは……」
 性格や仕草は違えど柳華は柳華なのだ。我が儘と言いたければ言えばいい。
―― 大事な奴がいなくなるのは……もうたくさんだ……
 これが正直な気持ちだった。
『人間の男よ。それはこの娘の命を奪うことになるのだぞ』
「誰だ?!」
 頭に直接響く声に煉は首を巡らせた。
『我はクロノス。時を司りし神だ。いまは訳あってこの娘の持っているカメラという物に
宿っている。いいか、よく聞くがよい。もしこの器を東雲柳華という娘に戻さなければ…
…ミュウは命を落とす』
「いったいどういうことだ!」
 小さなカメラ・クロノスに向けて煉は叫んだ。
『宿主のない器は時の流れに戻さなければならない。それが複製した物なら複製した本人
が戻すのが理。しかし、その際に多くの力を消費する。今のミュウがそれだけの力を発す
れば間違いなく命の灯火は消えるだろう』
「……なんで、そんな……」
 煉は愕然となってその場に膝をついた。
『さあ、選ぶのだ。ミュウか、東雲柳華か。時間は残されておらぬぞ』
 情けのないクロノスの問いかけ。

 そう、文献の最後に書かれた事実……それは、器を戻すことを拒否されて妖精が死んだ
というものだった。


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