第三十三話「想いはずっとここに」
 激しい葛藤に苦しむ煉を見ながらクロノスは過去を思い出していた。

 2000年前。
 まだ人が人として幼かった時代。地上に降りたひとりの幼精がいた。名前はラエティー。
心優しく、とても元気な幼精だった。
「クロノスはどうしてワタシといっしょにいてくれるの?」
 それは彼女が我を手にした所有者だから答えた。しかし、何より我はこの娘の笑顔が気
に入っていたのだ。
 ラエティーは地上でセスという娘とイーデムという青年と楽しく暮らしていた。
「ワタシはセスやイーデムとずっといっしょにいたいの。もちろん、クロノスもいっしょ
だよ」
 そう言うラエティーに我は同じ想いを込めて彼女の笑顔を記憶に刻んだ。このまま彼女
の笑顔を見続けたいと心の底から願いながら。
 しかし、運命とは皮肉なものだった。
 街が戦に巻きこまれ、セスが大けがを負ってしまった。命は取り留めたが、代わりに彼
女は記憶を失ってしまっていた。だがラエティーは幼精ながらも強い力の持ち主。器さえ
無事であれば記憶を戻すことなど造作もない。
 だが、最悪な事に器は粉々に砕け散っていた。
 忘れられてしまった悲しみと何もできなかった悔しさにラエティーは何日も泣き続け、
日に日に弱っていった。
「……記憶を戻す方法がひとつだけある」
 見かねて我はその方法をラエティーに伝えた。
 命を落とすかもしれないと忠告したが、やはり彼女はやめようとしなかった。
 そして、彼女は瀕死の状態になりながらも器の複製に成功して二人の前に戻った。
 これでラエティーは再び笑顔を取り戻し、また楽しい生活が始まることだろう。我は胸
をなで下ろした。
 ところが、
「必要ない。僕は今の彼女と生き続けることを決めたんだ」
 イーデムは器を戻すことを拒否し、好きな者の願いならばとラエティーは器を時の流れ
に返したのだ。
 我には理解できなかった。なぜ愛する者が戻ってくることを拒否したのか。ラエティー
の姿を見てなぜ拒否したのか。我は……彼の心が理解できなかった。
 それから2日後……衰弱しきったラエティーは静かに息を引き取った。
 時の流れでの旅と器を戻した際に多量の力を消費しすぎた結果だった。
 我は憎んだ。セスやイーデムを。ラエティーの想いも知らずに死に追いやったあの二人
を憎み、相応の罰を与えてやろうと思った。
 しかし、
『ワタシはセスやイーデムと出会えて幸せでした。ワタシは二人を恨まない。大好きな人
たちだから、ワタシは二人の幸せを願っている』
 死に際にラエティーが残した文献の最終ページを見てしまった我にはできなかった。
 だが今度は違う。二度も同じ過ちを犯すなら全ての人間の時を止めるつもりだ。永遠に
動くことはない。そして、朽ちていく。それが我が与えられる最大の罰だった。
―― 願わくば主が選択を間違わぬ事を……。
 願いつつ、クロノスはじっとカメラのファインダーを煉へと向けた。

―― どうすればいい……。
 考えれば考えるほどどちらを選べばいいのかわからなくなっていた。どちらも救えれば
それにこしたことはない。しかし、そんな選択肢は用意されてはいないのだ。
 今の柳華か。ミュウか。ふたつに1つ。
『早く選ぶのだ。さっきも言ったがこうしている間にもミュウの命は少しずつ消えようと
している。手遅れになるぞ』
 眉根に深い皺を寄せながら煉は目を閉じた。
 今の柳華とミュウ。
「……決めたよ。俺は――」
 一度柳華を見た後に煉はミュウの名を口にした。
―― 柳華を選べばミュウは死ぬ。だが、ミュウを選んでも柳華は死ぬわけじゃない
 表面上はそうだろう。柳華は記憶を取り戻して前と同じように振る舞う。彼女は死なな
い。だが代わりに今の、3週間一緒に過ごした東雲柳華が死ぬ。
 自らの選択に胸が鋭い刃で貫かれたように痛んだ。
「……すまん」
「いいんですよ」
 煉の肩に優しく触れる柳華。振り返ると、ニッコリ笑う柳華がいた。
「初めから私はこの日が来ると覚悟してました。だって、私は本来生まれるはずがない存
在ですから。ただちょっと早いかな〜と思っちゃってます」
「何で……何で笑ってるっ! 死ぬんだぞ! 消えるんだぞ!? 怖くないのか!」
「怖いに決まってるじゃないですか!」
 柳華が煉の頭を胸に抱き寄せる。彼女の体は小刻みに震えていた。
「怖いけどミュウちゃんを死なせたくない。煉さんだってそうでしょう?」
「……ああ」
「それとですね、ひとりでいるときに考えたことがあるんです。私はどうして生まれたの
かなって……」
「……」
「きっと私は貴方への想いを忘れないための、繋ぎの存在。記憶と想いは別のものだから、
もし記憶が戻ったときに貴方を好きでいなかったら嫌だから。……だから私という存在が
生まれたんだと思います」
「それでお前は満足なのか? 本当に満足なのかっ」
「ホント言うとちょっと不満です。まだデートもしてませんし、結婚式も、他にも色々と
したいことがあります。でも、私は消えません。月影煉が好きな東雲柳華として私はまた
生まれ変わるんです。ですから出来なかった事は全部生まれ変わって……から…っ」
 頭に冷たい雫をいくつも感じた。煉は柳華の顔を見ようとするが、強く抱きしめられて
それも叶わない。
「えへへ。駄目です。きっと変な顔ですから見せてあげません」
 それは彼女なりの精一杯の強がりだったのだろう。
「ミュウちゃん。さあ、その器を私へ」
 煉を解放して踵を返した柳華はミュウの元へと歩み寄った。ミュウは鉛のように重くな
った両手をもちあげ、
「ある…べきばしょ……へ」
 器を送る言葉を口にした。
 器はまっすぐ柳華に吸い込まれていく。と、まるで喜びを表すかのように輝きが増し、
その眩しさに煉は目を閉じる。
 やがて光が徐々に薄れていく。それはまるで3週間共に過ごした柳華という存在が消え
ていくように思えた。
 徐々に小さくなっていき光を胸に柳華が煉へと歩み寄り
「煉さん……」
 力強く抱き締めて耳元に囁いた。
「……なんだ」
「私からの最後のお願いを聞いていただけますか?」
「ああ、聞いてやる。何でも聞いてやるから言ってみろ」
「私と柳華さん……二人分好きになってください。できれば好きよりも愛だと嬉しいです」
「愛かはわからんが……俺は、お前が好きだ」
 柳華の腕から力が抜けた。その隙に煉は離れて柳華の顔を見る。
「ありがとう……ございます」
 笑っていた。涙でくしゃくしゃになった顔で笑っていた。
 器が柳華の中に全て入り、光は消えた。

 とても眩しい何かを感じて柳華は目を覚ました。
「あれ……あたし、なにして……ちょっと、どうして泣いてんの?」
 訳が分からなかった。
 どうして煉が泣いているのか、なぜ湿布だらけで車椅子に座っているのか。特に絶対に
泣きそうにない煉が泣いている理由はなんなのかが気になった。
「俺の勝手だ。くそっ!」
 涙を拭ったかと思うと、煉は両手を差し出した。そこには一目で瀕死だとわかるミュウ
が横たわっていた。
「ミュウ!」
「大事に抱えてろ。ミュウはお前の命の恩人だ」
 そう言って煉は凄い速さで車椅子を押し始める。
「ねえ、いったい何がどうなってんのよ!」
「後で、……後でゆっくり話す。それよりも今はミュウを助けることが先決だ」
 柳華は頷いて、かすかに息をするミュウを見た。
「リュウ…カ……」
 助けを求めるようにのびたミュウの小さな手。柳華はそっと握った。

 なぜだろう。ミュウを見たら言わなくちゃいけない気がした。いや、絶対に言わなくち
ゃいけない気がした。
「ミュウ。ありがと」
 心からの感謝の言葉を……。

 その声が届いたのか、ミュウは苦しげな表情に笑みを浮かべたのだった。


←前へ  目次へ  次へ→