第三十話「強烈な不意打ち♪」
 柳華が目を覚ましたという知らせに雪華、森也、世羅は喜んでやってきた。
 しかし、
「そんな……」
 煉から聞かされた記憶喪失という事実に雪華はその場に膝をついた。
「本当に何も覚えていないというの?」
「医者と一緒に質問したが何も覚えていなかった。他人はおろか自分のことさえ」
 本当に、何もかも柳華は忘れてしまっていた。名前、誕生日、家族、そして煉やミュウ
のこと全てを。その所為か今の柳華には昨日までの活発さは欠片もなく、すっかり大人し
い性格になっていた。
「記憶が戻ることはないのかい?」
 意気消沈の雪華を気遣いながら森也が言う。
「柳華のように肉体的ショックによって失った記憶が戻った症例はあるにはあるらしいが、
戻る確率はわからんそうだ」
「……そうか」
 森也はそっと雪華を立たせた。
「雪華、柳華に会ってこよう。俺達に会えば何か思い出すかもしれないだろ?」
 静かに雪華はうなずいた。
「部屋はICUから個室に移された。1023号室だ」
「わかった」
 二人は病室の方へと歩き出す。その背には深い悲しみが感じられた。
「くそっ!」
 やりきれない怒りに煉は壁を思い切り殴った。けたたましい音に近くにいた看護婦や患
者が目を丸くしている。
「煉様……。そ、そうですわ! ミュウちゃんやレグナットさんの力なら先輩の記憶も戻
せるのではないでしょうか?」
「ああ。だからミュウに母親を呼んでもらっている」
 心の妖精族の長であるサーラなら柳華の記憶を戻せるかもしれない。柳華の状況を聞い
たレグナットはミュウを連れて妖精の世界・フェリーナに戻っている。
 早ければ数分後には戻ってくるだろう。今のところ柳華の記憶を戻せる可能性はそれし
かない。

 5分後、レグナットとミュウはサーラを連れて戻ってきた。

 個室は重い緊張感に包まれた。
「…………」
 治療前の検査ということでサーラが眠っている柳華の額に手を添え、目を閉じてから5
分が経過しようとしている。誰もが息をのんで結果を待つ。
 と、大きく息を吐いてサーラは柳華から離れた。
「柳華殿の記憶はどうなっておった」
 レグナットの問いに、サーラは静かに首を横に振った。
「ごめんなさい、皆さん。私では記憶は戻せません」
 深々と頭を下げるサーラ。全員の顔に落胆の表情が浮かぶ。
「なんでなんで! おかあさんならきおくをもどすのできるはずだよ!」
「ごめんなさい。記憶の器が壊れていてはお母さんでもどうにもできないの」
「記憶の…器だと?」
 煉の問いかけにサーラは頷くと、
「簡単にご説明いたします。記憶というものは――」
 テーブルに置かれたコップを手にした。
「こういった器に記憶という液体が入っていると思ってください。一般的に記憶喪失とは
この液体が器から零れてしまうことを言います。液体は器が存在する限り消滅することは
ありません。ですので何かの拍子に液体が器に戻れば記憶が戻ります。ですが柳華さんの
場合は器が粉々になっていました。多少のキズでしたら修復できるのですが……」
「結果だけ聞かせてくれ。柳華の記憶はもう二度と戻らないのか?」
「はい。奇跡でも起こらない限りは」
「……そうか」
 二度と昨日までの柳華には会えない。すぐに怒り、憎まれ口をきく彼女とは二度と。そ
の事実は胸にぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。
 重い空気が立ちこめる病室から煉は静かに外へ出た。そして足早に階段を上って屋上へ
ゆくと、
「くそったれがぁーーっ!!!!」
 大声で叫びながら壁を殴りつけた。
 何度も、何度も、皮膚が破けて血が出ようとも煉は殴り続ける。こんな結果を招いた進
藤昴が許せななかった。しかし、何より許せなかったのは何もできない自分の無力さだっ
た。

 そのまま煉は、彼を捜しに来たミュウとフェリスに止められるまで殴り続けた。
 壁を殴り続けた両拳は裂傷だけで幸い骨に異常はなく全治2週間と診断された。

 3日後、柳華は搬送された病院から世羅の屋敷内にある医療施設に移された。住み慣れ
た街にいれば柳華の記憶が戻るのではないかと世羅が提案したのだ。
 世羅の提案に雪華は承諾した。柳華の記憶が戻るならどんな小さな希望にもすがりたい
のだろう。

 煉は、呪いのこともあって柳華の病室で寝泊まりしていた。
 朝8時に起きて、9時にバイトへ向かい、午後四時に帰る。ほとんど事件前と同じ生活
だ。ただひとつ、柳華が自分の知る柳華でないことをのぞいて。

 そして、柳華が記憶を失ってから2週間が過ぎた。

「あ、今日は早かったんですね」
 部屋に入ると、柳華は読みかけの本を置いた。まだ動けないのでベットに腰掛けている。
柳華には一通りのことを話してある。自分のこと、呪いのこと、自分が知る全ての事を。
 呪いの事は信じないと思っていたが、柳華は少しも疑いはしなかった。逆に「そういう
ことってあるんですね〜」とあっけらかんとしたものだ。
「あ、ああ。今日は配送もなかったから早くあがらせてもらった」
 まだ煉は柳華の話し方に慣れていなかった。
 いつもなら『早かったじゃない。ほれ、さっさとメシメシ作りなさいよ』と言いながら
キッチンに押し出しただろう。あまりにもギャップがありすぎだ。
 おかげでたまに寒気が全身に走ったりすることがあった。
「嬉しいです。ずっと本を読んでいるのは退屈で。あ、でも、ミュウちゃんが遊んでくれ
るのでそれほどでもないですけど……あ、でもでも早く帰ってきてほしいですし、えと、
あの……」
 顔を真っ赤にしてしどろもどろになり最後には俯いてしまう。
「わかったからパニくるな。ところでそのミュウはどこだ?」
 煉は部屋を見渡した。10畳の広さをもつ部屋だがあるのはベッドと小さなテーブル、
椅子だけだった。着替え等は別の部屋にある。いかにも病人の部屋という感じが煉は好き
になれなかった。
「ちょっと外に遊びに行ってくる〜とでかけました」
「そっか。……昼飯はちゃんと食ったか?」
「はい。ただ右手が使えないので食べるのも一苦労でした」
 そう言いながらギプスで固定されている右手を上下させる柳華。
 使い慣れない左手でスプーンを握っては転がし、拾っては転がしている光景を想像して
煉は思わず苦笑してしまう。
「あ、やっと笑ってくださいましたね」
「そうか?」
「はい。いつもむすっとした顔でしたので新鮮です」
「ほっとけ。むすっとした顔は地だ」
「わかってます。でも、むすっとした顔より笑った顔の方が素敵ですよ」
「む……」
「むすっとした顔も好きですけど」
「……」
 ストレートな好意に顔が紅潮していくのがわかる。これ以上いるとからかわれるだけだ
と煉は部屋を出ようと踵を返そうとして、
「あの、やっぱり記憶が戻った方が……いい、ですよね」
 唐突なその言葉に足を止めた。
「煉さんがあまり笑わないのは私ではない、貴方のよく知る東雲柳華ではないからだとい
うのはわかっています。お姉さんやお兄さん、世羅さん、ミュウちゃんも……無理して笑
って」
 振り返ると柳華は笑っていた。しかし、悲しみに満ちた笑みだ。
「本当に……ごめんなさい。私でごめんなさい」
「謝るな」
 煉はそっと柳華の頭に手を置いた。
「あ…」
「謝るのはこっちの方だ。お前にそんな事を考えさせて、生まれたばかりで不安なはずな
のにな」
「いいえ。ちっとも不安なんかじゃないです。だって、煉さんがいますから」
 涙を拭って柳華は微笑を浮かべる。
「不思議なんです。目を覚まして初めて煉さんを見たとき、とても安心できました。どう
してか考えてましたけど、すぐにわかりました。前の私もきっと……貴方が好きだったん
だって」
「お、おい――む!?」
 急にシャツを掴まれたと思うと、柳華の唇が煉の唇をふさいでいた。それはほんの数秒
のことだっただろう。けれど、煉には1分にも、それ以上に長い時に感じた。
「えへ、奪っちゃいました。ちょっと前の自分に悪いかなって思いましたけど、私って思
い立ったら即行動のタイプなんです」
 唇を離した柳華は自分の頭をこづく。
「順番が逆になってしまいましたけど私は煉さんが好きです。お付き合いしてください」
「…………」
「あれ? あの、煉さ〜ん。ご在宅ですか〜?」
 柳華は煉の眼前で左手をひらひらさせる。
 しかし、キスされたことのショックと恥ずかしさで、すでに煉の意識は遠いところへバ
カンスに行ってしまっていた。
 よって、煉は驚きの表情のまま仰向けになって地面に倒れた。

 いきなり倒れた煉を見て慌てた柳華は、
「わわっ。れ、煉さん!?あ、ど、どうしよう。そうだ、コールして誰か呼ばないと」
 枕元のコールボタンを連打した。

 こうして煉はファーストキスを不意打ちで奪われたのだった。

 その頃、ミュウは医療施設から少し離れた所にある公園に向かっていた。遊んでいると
フェリスから念話で公園に来てほしいと言われたのである。
「みゅ〜。なんのごようかな?」
 疑問に思いながら公園に赴くと、
「遅いぞ、ミュウ!」
 ブランコに座っていたフェリスがやや怒った声で言った。
「これでもいそいできたんだよ〜。どうしたのおねえちゃん」
「ああ、忘れるところだった。自動監視装置もきちんと稼働して自由になったから柳華ち
ゃんの記憶が戻せないかフェリーナで色々と調べてたら、奥で面白い文献を見つけたんだ」
 そう言ってフェリスはミュウが首にぶらさげているカメラを摘んだ。
「かめらさんをどうするの?」
「いいから見てて。さあ、そろそろ口をきいてくれてもいいんじゃないかな? 時の神様」
 ミュウはかめらをまじまじと見つめた。カメラは何も語らない。
「黙りを続けてもいいけど、そのときはどぶに投げちゃうから」
 それでもカメラは語らない。カメラはカメラだと言わんばかりに。
「あっそぅ。なら本当に投げちゃっていいんだ」
 フェリスは公園を出て近くの排水溝の蓋を開けた。
「うわっ〜」
 中を見たミュウは思わず声を上げてしまう。排水溝にはおどろおどろしい色の液体が流
れていた。さらに液体からは鼻を摘みたくなるような臭いが立ち上っていた。
―― お姉ちゃんは大丈夫なのかな?
 不思議に思って前にまわる。姉はいつの間にか黒いマスクをつけていた。息をする度に
しゅこ〜という音が発せられる。
「話した方が身のためだよ。うふふ」
 少しずつカメラがどぶへと下ろされていく。
 10センチ。
『………』
 8センチ。
『……』
 5センチ。
『…』
 2センチ。
『我の負けだ。妖精の娘よ』
 どぶに触れる寸前のところで男の声が直接頭に響いた。
「わわっ?! ほ、ほんとにしゃべったぁ〜」
「手間をかけさせて。初めから口をきけばよかったのよ」
 マスクを取り外しながらカメラを引き上げるフェリス。
『何故我の存在を知った、娘よ。我の存在はほとんどの者が知らぬはず』
「長老様にお願いして封印の書庫を開いてもらったの。そこなら何かあると思ってね。そ
んで案の定いい文献が残ってったわけ」
『なるほど。あの場所か……』
「みゅう?」
 二人の会話についていけずミュウは首を傾げた。
「この文献は母様やミュウと同じ記憶・思い出を司る妖精が書いたものなの。それも20
00年も前にね。これには柳華ちゃんと同じように記憶の器が壊れてしまった人間を助け
る実体験がつづってあった」
「え、じゃあじゃあリュウカはミュウのことおもいだしてくれるの!?」
「そゆこと。その時に妖精に力を貸した神様―クロノスが力を貸してさえくれればね」
 聞くが速いかミュウはフェリスの手からクロノスを引ったくって眼前に持ってくる。
「おねがい。ミュウに力をかしてほしいの。リュウカにミュウのことおもいだしてほしい
の! カメラさん、おねがい!」
 強くミュウはカメラ─クロノスに願った。
 優しくても自分の知る柳華じゃない。呼ばれ方の違いや接し方の違いに柳華の前では笑
っていたが、内心とても寂しかった。
「カメラさん、おねがい!」
『……娘。フェリスといったな。主は文献を読んだのなら、これから行うことがどれほど
危険か知っておるはずだな?』
 小さくフェリスは頷いた。
『あえて妹を危険に晒すというのか』
「それがミュウの望みだというなら止めはしません」
『……ミュウよ。己の命が消えてしまうかもしれないとしても、汝は柳華という娘の記憶
を戻したいのだな?』
 ミュウは大きく頷いた。
「ミュウはリュウカだいすきだもん。リュウカのためならこわくない!」
『よかろう』
 カメラがふわりと浮かびあがった。
『……我が意に従いその姿を現せ……時の門よ!』
 ファインダーから一筋の光が放たれる。光は途中で何かにぶつかったかのように所々で
方向を変え、次第にそれは大きな魔法陣を形作っていく。
 完成された魔法陣は空間を涙させながら大きな懐中時計が出現させた。
「へぇ〜。これが時の流れに入ることができる時の門なんだ」
『さよう。この門に入ることができるのは我の所有者のみ。だが代償として所有者の力を
もらいうける』
「ちから〜?」
「魔力と生命力のこと。長いことあの中にいたら死んじゃうってことだよ」
「じゃあなかにはいったらいそがないと」
 柳華や煉とずっと一緒にいたいから死ぬわけにはいかないのだ。
「……やっぱり行くの?」
「もちもちロンロン♪ リュウカにミュウのことおもいだしてもらいたいもん♪」
 ミュウはフェリスにVサインをみせた。
 本音は怖かった。しかし、柳華が自分を思いだしてくれるならへっちゃらなのだ。そし
たら煉も喜んでくれる。煉だって柳華の為なら拳銃を向けられても怖がらなかった。
―― だからミュウだってこわくてもがんばるもん!
 拳を握りしめて大きく頷く。
『本当によいのだな?』
「うん」
『ならば……我、時の回廊を開く』
 ボーンボーンと古い振り子時計の鐘に似た音と共に懐中時計の蓋が開いた。
『あの向こうが時の流れだ』
 ミュウの手に戻ったクロノスが言う。
「よ〜し! じゃあ、おねえちゃんいってくるね〜♪」
「絶対に無事に戻ってくるんだよ!」
「うん!」
 姉の言葉に元気に答えてミュウは懐中時計の中に入る。
「わぁ〜」
 そこは広大な宇宙のような場所だった。いくつもの映像が凄い勢いで一定方向に向かっ
ている。ミュウはその流れから少し離れた場所に浮いていた。
『ここが時の回廊。これらは全て未来に向かって流れている。未来を視たければこの流れ
に身を任せ、過去へゆきたいのならばこの流れを遡ればいい』
「じゃあ、ミュウはさかのぼんなくちゃ。あ、でも、どうやったらリュウカのきおくもど
るのかな?」
 考えてみれば一番重要な部分を教わっていなかった。
『器が壊れたのならば器を複製してやればいい。記憶の器はその者が母より生まれいでる
ときに作り出される。母胎の記憶と共にな。複製できるのはその一瞬のみだ』
「ならリュウカがうまれるときまでむかしにいけばいいんだね」
『その通りだ。だが記憶の器を複製できるか否かは全て記憶の妖精としての主の素養によ
るということを心しておけ』
「がんばるもん!」
『ならば、主から見て右斜めにある光っている場所に入るがいい』
 言われたとおりの場所を見ると、凄い勢いで流れている映像がひとつだけ止まっていた。
『あれが東雲柳華という娘の時だ』
「なんでとまってるの〜?」
『記憶の器が壊れたためだ。急ぐがいい。止まった時はいずれ消滅する。そうなれば二度
と東雲柳華の記憶を戻すことはできなくなるぞ』
「うい!」
 答えてミュウは柳華の時に入った。
「あ…」
 そこには煉や自分との記憶がたくさんあった。
「リュウカのかこってどっち?」
『この方向だ』
 クロノスのファインダーから道しるべのように光が放たれる。
『この光を辿れ』
「ありがとカメラさん♪」
 ミュウはニコッと笑い、時の流れを遡り始めた。

 柳華の記憶の器を作り出すために。柳華に自分のことを思いだしてもらうために。
 何よりまた3人で楽しく過ごすために。


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