第二十九話「あなたはだれですか?」
 煉が宿を飛び出して15分が経過した頃。
「道路を封鎖している者の半分は宿から周囲1キロを捜索。犯人はひとりであると思われ
るが武器を携帯している可能性も考慮し、クラスCの武器携帯を許可します」
 淡々と南が無線機で部下に指示をくだしている。
「まさかこんなことになるなんて……っ」
 突きつけられた現実に世羅は爪を噛んだ。
 柳華が誘拐されたことをしったのは1分前。旅館の入り口に設置してあったカメラが柳
華を肩に抱える男の姿を映していたのである。
 それは皆が食事でモニターの前から席を外している間の出来事だった。事件を知ってす
でに森也と鈴城は捜索にでた。世羅は待機、雪華と雫は動きやすい服に着替えている。
「申し訳ありません」
 指示を終えた南が深々と頭を下げた。
「お話しておりませんでしたがお二人の行く先々で妙なトラップが仕掛けてあるとの報告
を受けていました」
「なぜ黙っていたの!」
「常にお二人の側を部下が護衛してましたので……本当に申し訳ありません」
「このっ!」
 南を殴ろうと振り上げた腕を雫に掴まれた。
「やめ。この娘を殴っても柳華が戻ってくるわけないんやで」
「そうよ。殴る暇があるなら貴女も自分のその足と目を使って柳華を捜しなさい。行きま
しょ。1秒でも早く柳華を取り戻さないと」
「そやな」
 頷き合って雪華と雫は出ていった。
―― お二人の言うとおりですわ
 ここにいたって何にもならない。今は救出の報告を待つのではなく、自らが救出するた
めに奔走することが正しい。
「南、私も先輩を捜しに参ります」
「お供いたします」
「……汚名返上してくださいね。それからさっきはごめんなさい」
「お気になさらず。では参りましょう」
 南の言葉に頷き、世羅は車から飛び出した。
―― 先輩、無事でいてくださいね

 目を覚ました柳華は暗闇に満ちた世界に小さく身を震わせた。ゆっくりと首を動かして
周囲を見渡す。目が慣れていないのと明かりがないのが相まって何も見えない。
「ここは……どこよ?」
「宿から少し離れた森の中ですよ」
 懐中電灯の光が向けられる。手で光を遮りながら懐中電灯の持ち主を見上げた。半ば予
想していた人物――進藤昴。
 数々の嫌がらせをし、煉に釘ボールで怪我を負わせた憎き相手は悪びれた様子を微塵も
見せずに笑っていた。
「いったいどういうつもりよ! これって犯罪よ!」
「もちろん君を助けるためです」
「はぁ?」
「僕は考えました。なぜ君が正直になれないか。それはあの月影煉がいるからいけないん
だと結論がついた。なら君をあの男から離してしまえばいいと、こう思ったんです」
「んなことしても無駄よ、このイカレ妄想根暗男! あたしは煉が好きだから一緒にいる
って言ったでしょうが!」
「……そうか。君はもう彼にそこまで…。ならその呪縛からいま解き放ってあげるよ」
 懐中電灯を置いた昴が柳華の両肩を掴む。
「な、何するつもりよ!」
「僕の想いを込めた口づけで君をあの男の呪縛から解き放ってあげるんだ」
「や、やめなさ…な、なに? 体がしびれ…て…」
 思い切り殴り飛ばしてやろうと右手に力を入れようとしたが思うように力が入らない。
抵抗を緩めた柳華を見て昴が微笑を浮かべた。
「どうやら効き目が現れたようだね。少しばかり薬を使わせてもらったよ」
 少しずつ昴の顔が迫ってくる。
―― ヤダ……こんな奴なんかにっ!
 抵抗しようと手や足を動かそうと力を込めるが、薬の影響で震える程度しか動いてはく
れなかった。
―― 一度で、一度でいいから動いて!
 必死に自分の体に願いながら柳華は昴を睨みつけると、
「近寄るなーーーーーーーっ!」
 叫んで右腕に力を込めた。力を蓄えていたバネの如く腕が跳ね上がる。顎に拳をくらっ
た昴がもんどり打って地面に倒れた。
―― 今の内に逃げないと……。
 ほとんど力の入らない体に鞭打って立ち上がり、柳華は暗闇に慣れた目が捉えた木の幹
から幹へ倒れ込むようにして少しずつ昴から離れる。
「いけない! そっちに行っちゃだめだ!」
「誰があんたの言うことなんかっ」
 吐き捨てるように答えて柳華は足を踏み出す。
「え?」
 がくん、と体が傾く。踏み出したそこには地面がなかった。
―― 何かに掴まらないとっ!
 しかし手は何も掴むことはなく、そのまま柳華は深い谷を転がり落ちた。視界がぐるぐ
ると回り、全身に鈍い痛みと熱が襲った。
 そして最後に強い衝撃が頭を揺らす。
 体が動かない。視界が霞む。腕が、足が、背中が全身の至る所が痛い。
「あ………れ……ん……たす…け……」
 何度も途切れ途切れの声で煉に助けを求めながら、柳華はゆっくりとゆっくりと目を閉
じ、完全に意識を失った。

「くそったれ! 暗くて何も見えん!」
 深い森を進みながら煉は叫んだ。急いでいたためにライトは持ってきていない。おかげ
で小枝に服がひっかかりあちこち破れてしまった。さらに足場が見えにくいので走ること
もできない。
「柳華の所まであとどれくらいだ!」
「えとえと……あれれ、ちかづいてくるよ〜」
「どっちからだ?」
「あっちから!」
 ミュウが右斜めを指さした。
「ん?」
 その方向に小さな明かりが見えた。移動してるから家屋の明かりではない。
「いってみようよ」
「そうだな」
 頷いて煉はできるだけ音を立てずに明かりへ近づいていく。
「あれは柳華か?」
「うん。でも、リュウカをつれてったひともいっしょみたい〜」
「それなら好都合だ。柳華を取り返して地獄みせてやる」
「らじゃ〜」
 二人は身を潜めてこっそりと光に近づき、
「貴様!」
 歩いて来た男の胸ぐらを掴みあげた。
「ひぃ〜」
「柳華を誘拐なんてしやがって。……覚悟はできてるんだろうな?」
「レ、レレレレレレレレ〜〜〜ン!」
「なんだ。こっちはこの男をどう料理してやろうか考え中だ」
「リ、リリリリリリリリリリリュウカが〜」
「いったいどうし――柳華!」
 男−昴に背負われている柳華を見た煉は驚愕した。
 頭から血を流してぐったりしていたのである。頭だけではない。顔や腕、足にも大小多
数の傷があった。
「貴様ぁ!!!」
「ぼ、僕がやったんじゃない! 逃げようとした彼女が勝手に! と、止めたんだ! 僕
だって柳華が大切だから――ぐあっ!」
 何も言わず煉は昴の腹部に拳を叩き込んだ。
「貴様に柳華の名前を呼ぶ資格があると思うな。ミュウ、柳華は息をしているか?」
「うん。でも、はやくリュウカをびょ〜いんにつれてかないと!」
「わかってる!」
 昴から柳華を奪うとそのまま背負った。誘拐した事への報復よりも今は一刻も早く病院
へ連れて行くことが優先事項だ。
「ミュウ、帰り道はわかるか!」
「だいじょうぶ! カガミさ〜〜〜〜ん!」
 ミュウがぱちん、と指を鳴らす。
『はぁ〜〜〜い。呼んだかしら〜』
 小さな爆発とともにミュウとほぼ同じ大きさの鏡が出現した。
「カガミさんならミュウたちがきたみちわかるよね! おねがい、ミュウたちをつれてっ
て! リュウカをたすけたいの!」
『まかせて。お姉さん、今回は張り切っちゃうわ』
 鏡から一筋の光が放たれる。光は闇の中をジグザグに進行して道しるべとなった。
『この光の通りに行けばミュウちゃんたちがいた旅館に到着するわ』
「レン!」
「おう!」
 輝き続ける道しるべに沿って煉は走り出した。小枝に腕や手が傷つこうとも、疲れて息
が切れても足を動かし続ける。
「おい、死ぬんじゃねえぞ。まだ温泉卓球してなければ、他にも色々言いたいこともある。
だから、死ぬな!」
 柳華を助けたい、その一念で。

 鏡から放たれた光の筋は煉達に帰り道を教えるだけではなかった。

「この光はいったい」
 いきなり自分を貫いた光に南は目を丸くした。別段体に異常はない。光は真っ直ぐ旅館
の方へと続いていた。
「森の奥から続いていますわ。もしかしたら妖精のミュウちゃんの力かもしれません」
「妖精?」
「説明は後ですわ。きっとこの光を辿れば先輩や煉様に会えます」
「わかりました。では私の後に続いて来てください」
 光に沿って南が走り出した。世羅も後に続く。

 二人が柳華を背負った煉を見つけたのはそのすぐ後だった。

 断続的に医療機器の音が室内に鳴り響く。
 保護された柳華は医療ヘリによってICUのある近くの病院に収容された。治療を
施されて今は静かに眠っている。
 医師の診断結果は全身22カ所の打撲、33カ所の切り傷、幸い骨折はないが右腕にひ
びがはいっているとのこと。そして、一番の大きなキズは頭部で8針も縫うほどのキズだ
った。特別に許可をもらった煉は椅子に座ってじっと柳華の寝顔を見続けていた。
「リュウカはだいじょうぶだよね? きっとすぐにめをさましてミュウとおはなししてく
れるよね?」
 ミュウの問いかけに煉は何も言えなかった。
 医者が言うには命には別状ないらしい。ただ頭の傷で何かの後遺症がでる可能性もある
とのことだった。
 騒動の原因である進藤昴は世羅の部下が保護し、その後警察に引き渡されたそうだ。罪
状は誘拐と婦女暴行未遂、そして傷害罪だ。

 雪華は実家の両親にこの事を知らせに向かい、森也には着替えを取りに時雨荘に行って
もらった。はじめ二人は昴を本気で殺すために警察署へ向かおうとした。最愛の妹がこん
な目にあわされたのだから当然だろう。
 だがそれで逮捕されたら柳華が悲しむと雫に諭されて二人は渋々納得してくれた。けれ
ど昴本人が目の前に現れたらきっと襲いかかるに違いない。

 手を握られた感触で煉は目を覚ました。
「……寝てたのか」
 時刻を調べようと首を巡らしていると、また微かに手が握られた。握っているのは誰で
もない柳華だ。
「柳華? おい」
 軽く手を握り替えしながら煉は呼びかける。ゆっくり柳華が目を開けた。
「……あ」
 何かを呟こうとして声にならなかった、そんな音が彼女の口から漏れる。
「おい、大丈夫か?体は痛むか?」
「……」
 柳華は状況を確かめるように首をめぐらせ、最後に煉を見上げる形で止まった。
「あの……」
「どうした?」
「……ここは?」
「病院だ。覚えてないのか? お前は進藤昴に誘拐されて谷に落ちたんだ」
「はぁ。そうなのですか。……ところで」
「ん?」
「あなたはだれですか?」
 浴びせかけられた問いかけに煉は言葉を失った。
「お前まさか……」

 そこで煉は医者との会話を思い出した。
『頭部の怪我ですので何か後遺症が残るかもしれません。頭部の強打によって引き起こさ
れる代表的なものは言語障害、記憶障害です』
 記憶障害。つまりは記憶喪失。

 そう、柳華には生まれてから20年の記憶がまったく存在していなかった。


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