第八十九話「変化―其の四・勉強とこれからと―」

 長風呂で茹で上がった体がベッドを認識するなり全力で倒れ込むと、超高級なもので
あろう掛け布団が優しく受け止めてくれた。加えて少し冷えていた表面が程よく体の熱を
奪ってくれて何とも気持ちが良い。出来ることならこのまま寝てしまいたかった。
 が、『私が戻るまで寝ては駄目よ』と言われているので我慢するしかない。ただ、寝よう
としたら頭上から強烈な殺気を浴びせられるので寝るにも寝られないのが現実だが。
―― かといって、疲れ切った体は殺気を浴びてすらも寝るかもしれん
 仕方ないのでベッドから離れて椅子に腰掛け、疲れの原因を思い出すことにした。

 まずはハル達へのご祝儀を返す返さないの揉め事だ。
 ハルから事の次第を聞いたときは呆れるしかなかった。まさか小切手なんていう手段で、
しかもご祝儀に億単位もの金額を渡すなどと誰が予想できようか。世間一般的な考えでは
絶対に思いつかないと断言してもいい。
「んで、何でご祝儀にあんな大金を渡したんだよ」
 ひとまずこっちで話をつけると説明して電話を終えると、既に椅子に座っていた棗と向
かい合って俺は理由を問いただした。
「入浴費と一泊分の宿泊費、料理の材料費、後は私の彼らに対する祝福の気持ちです」
「だからって金額の桁を間違えすぎだっての! ちょっとは俺側の常識的考えで物事を考
えろって。お前にとっては普通でも相手にゃ迷惑って事もあるんだぞ」
「税金の関係なら後日こちらからで向いて処理させるつもりでした」
 既に迷惑のひとつはわかっていたらしく反省の色ゼロだった。逆にどうして良いことを
したのに怒られなくちゃいけないのと言わんばかりに不満げな顔を向けてくる。
 こっちが願っている理解をしてくれていない。だから俺は即座に両腕をクロスさせて首
を横に振って却下した。
「どうして!? 税金の件を取り除けば迷惑では――」
「そりゃ確かに大金もらえたら迷惑どころか嬉しいだろうさ。それで命が助かったり、生
活が助かったり、後はたまたま買った宝くじで当たったとすれば尚更な。けどな、どれで
もないのに大金を、しかも顔見知り程度の相手からポンと渡されても困るだけだっての。
使い道よりもまず何で大金を渡されたかで悩んじまう。仮に受け取ってくれたとしてもお
前が上で相手が下みたいな関係ができちまう。つまりはありがた迷惑って事だ」
 こっちの言い分を理解するよう自分なりにわかりやすく説明していく。聞き終えた棗は
両腕を組んだまま頬を膨らませる。
 微妙に子供っぽい反応を見るからに言い分は理解したが心は納得していない、そんな感
情が読み取れた。
 すぐには理解してもらえないとわかり俺はため息をもらしてこう続ける。
「お前も勉強が必要だな」
「一般教養、経済、その他諸々の事を既に学び尽くしている私に何を学べと?」
「俺達一般庶民になって考えるってことだよ。……つ、つまりは俺と恋人であることを続
ける為の勉強だ。って、うわ! 何かすんげぇ恥ずかしい!」
 痒くなった体を掻きむしりながら机に突っ伏す。
「その勉強をしないと彩樹は私を想ってはくれないの?」
「しなくても変わらねぇよ。今のところは。けど、いつまでもって保証はない。俺にだっ
て我慢の限界ってのがあるしな」
「それなら勉強するわ。彩樹とずっと一緒にいるのに必要な知識を全て。もちろん教えて
くれるのは彩樹よね?」
 足音が近づいて来たかと思うと、掻き疲れてぷらぷらさせていた左手が温もりに包まれ
る。顔を上げれば下から潤んだ棗の瞳が向けられていた。
 綺麗な顔立ちに可愛さがプラスされて何とも抱き締めたい衝動に駆られてしまう。
―― いやいやいや、ここは毅然とした態度で。次の機会に思いっきり抱き締めろ
 そう自分に言い聞かせて心を無理矢理落ち着かせてから頷く。
「あ、ああ。そりゃ俺達側の考えだから教えられるのはここには俺しかいないだろ」
「教えてくれるのは知識だけ?」
 何を言っているんだと返す暇もなく俺は棗に力強く引き寄せられ、気がつけば膝枕され
ていた。そして柔らかな両手が頬に添えられる。
 真っ直ぐ見下ろしてくる顔はさっきまでの可愛さはなく、代わって思わず息を飲むほど
の艶っぽさを醸し出していた。
「え〜と、これは何がどうなってこんな状況なのでしょうか?」
「恋人との勉強は知識だけじゃ足りないわ。実践が必要な勉強もあると思うの」
「ぐ、具体的に言うと?」
「どんなキスをしたら一番幸せな気持ちになるか。一緒に学んでくれるわよね?」
 こっちの答えを聞かずに棗は目を閉じてゆっくりと顔を近づけてきた。熱のこもった甘
い吐息を肌に感じた途端に心臓が期待と緊張で激しく鼓動し始める。
―― こ、これはこのままいただいちゃっていいのだろうか?
 俺としてはハッキリ言って嬉しい状況だった。というか男であれば誰でも喜ぶべき状況
のはずだ。しかし、まだ一緒になる為の努力もせずにこんなご褒美イベントはいいのかと
いう考えも浮かぶ。
『あ〜や考え堅すぎ〜』
 但し、すぐさまハルの声をした悪魔がそれを否定した。
―― ようはこのまま棗とキスをしたいってのが俺の本心ってわけか
 それなら、このまま桜の花びらみたいな可愛らしい唇に舞い降りてもらうとしよう。と、
そう思った所で全身の肌が粟だった。
 別に思った表現がいつもの俺らしくないから体が拒絶した訳じゃない。この邸内で肌が
粟立つ原因なんてものは4つしかない。
 棗から向けられた殺気か、恵から向けられた怒気か、くノ一連中から向けられた殺気か、
そして……メイド女達から向けられた殺気のどれかだ。
 その中で最も高い確率を誇るのは……。
―― やっぱりメイド女か
 目線だけを下げて殺気が向けられている足下方向を見れば、メイド女・玲子が大型のス
ナイパーライフルを構えていた。
 以前、何度かメイド女達の部屋に連れ込まれた際にメイド女・十三子が熱く語っていた
ものだ。確か『M95』という物だ。
 説明通りなら非人道的で国際法上でも対人射撃は禁止されている程の威力があるとか。
―― あんなものぶっ放せば俺だけじゃなくて棗にも風穴空くぞ
 っていうか初めから撃つつもりなどないんだろう。ああやって脅して俺を精神的に苦し
めるつもりなのだ。
―― ただでは俺に幸せ気分を味合わせないってわけか
 いかにも俺を嫌う連中らしい行動だった。ついこの前までの俺なら連中の怒りを鎮める
為にこの場を濁したことだろう。
―― しかし! 今日からの俺は違う! 自らと棗の幸せの為ならメイド女達には絶対に
屈しない! 今回のこれがその第一歩!
 沸き立つ闘志を胸に俺はスコープでこちらを見ている玲子に対してVサインを見せてか
ら棗と唇を重ねる。
 そして、少しばかり柔らかな唇の感触と痺れるくらいの幸せを味わうのだった。

 めでたしめでたし……とはならなかった。

「ふふっ。この勉強だけは1日中していたいわね。でも、この続きをする前に夜通し騒い
だ疲れや汚れをお風呂で落とそうと思うの。というわけで一緒に入りましょう」
 少し照れながら唇を離した棗が更なるスキンシップを要求してきた。刹那、全身を大小
様々な刃物で全身を貫かれたような錯覚の後、凄まじい息苦しさに襲われる。
 知っているだろうか。本物の殺気というのもは時として人の命を奪う力を持つことを。
俺の今置かれている状況、向けられているモノが正にその一歩手前な状態だった。
―― 棗の申し出は嬉しい限りだがさすがに連中の我慢も限界か
 棗に気づかれないよう息苦しさに喘ぎながら、俺はとりあえず天井に向かって入る気は
ないとジェスチャーで知らせると、どうにか理解してくれたらしく息苦しさが薄れていく。
「何をしているの? 早く起きてついてらっしゃい」
 先に立っていた棗が部屋の出入り口で踵を返してこっちを振り返った。
「あ〜、悪いけどちょっと疲れて動きたくないから俺は後で入るわ」
「許しません」
 こっちの状況など全く知らない棗は、不満げに眉根に皺を寄せてからバッサリ却下して
くれやがりました。
「頼むから許してください」
 命に関わるんです、と心の中で続ける。
 メイド女達の所為で一気に疲れ切った俺の言葉に棗はほんの僅かに考える素振りをした
かと思えば、不意に笑みを零し駆け寄ってきた。
「疲れているのなら肩を貸してあげるわ。ほら、立ってちょうだい」
「いやいやいやいや、こんな状態で風呂入っても体洗えねぇし、下手したら気を失って溺
れるかもしれないだろ?」
「体なら洗ってあげますし、湯船の中で私に寄りかかっていれば溺れる事はないでしょ。
だから安心なさい」
 ひしひしと感じる献身さに何も言い返せなくなってしまう。ひとまず肩を借りて立ち上
がりながら、
―― ど、どうすればいいんだぁぁぁぁぁあ!!
 心の中で止まらない状況の悪化に頭を抱えた。
 今のところ殺気の刃は襲ってこない。棗の幸せを願う連中が気を利かせているのかもし
れない。もしくは貫く殺気を研ぎ澄ましているか、だ。
 激しく後者のような気がした。
―― うぅぅぅぅむ。こうなったら最後の手段だ
 最悪の事態を回避する為に俺は腹を押さえてその場に膝をついた。
「あたたたたた。た、タンマタンマ。ちょっと腹が……」
 ザ・仮病を発動。
「痛むの? 食あたりかしら?」
「それか食べ過ぎたツケが今頃来たのかもな。つうわけで悪いが風呂はひとりで入ってく
れ。もしお前が戻って来る前に調子が良くなったら行くからよ」
「……わかりました。今日は諦めます。誰か鏡花に食あたりに効く薬を持ってこさせて
ちょうだい」
 姿を現した双葉が頷き、そして再び姿を消すのを見届けてから棗は俺を椅子に座らせる。
ちなみに今更だが『M95』を構えていた玲子はキスをした時点でライフル共々姿を消し
ていた。
「酷く痛む?」
「立ってらんない程は痛くないから心配せずに風呂入ってこいよ」
「でも――」
「いいから行けって。子供じゃないんだから薬さえもらえりゃ大丈夫だ」
「……わかったわ。けれど、辛くなったら誰でもいいから呼ぶのよ?」
 渋々といった感じで離れた棗は部屋を出ようとして再び振り返る。
「それと私が出る前に良くなったらちゃんと来るのよ?」
「わかってるって。つうかさ、一緒に風呂に入れだの言って恥ずかしくないのか? ぶっ
ちゃけ俺は恥ずかしいんだが……」
 さっきは殺気の刃で考えるどころではなかったが、改めて一緒にお風呂に入ってほしい
と懇願されているのだと理解したら思わず想像してしまい、顔は自然と赤くなっていた。
 まるで伝染したかの如く棗の顔も下から朱色に染まっていく。
「も、もちろん恥ずかしいに決まってます! だけどその……彩樹は恋人で特別ですし、
もっと彩樹の心を私に向けさせたいんだもの」
 そう言って棗は顔を赤くさせたまま俯く。最近よく見せるようになったその『恋する女
の子』の表情に思わず胸を押さえてしまう。
―― ええぃ、その表情は相変わらず強烈だな!
 ほとんど免疫がない俺にとっては必殺の威力だった。
「今のところはお前だけに向いてるから安心しろ」
 毎度沸き上がってくる抱き締めたい衝動をぎりぎり抑え込みながら答えると、
「今のところというのは少し不服だけど、私だけを想ってくれていると言ってくれたのは
とても嬉しいわ。それじゃ、もしも治ったら来るのよ」
 そう言い残して部屋を出て行った。

 こうして危機から脱したのだが……。

 それから棗が出た後に頃合いをみて入ろうとしたら一緒に入り出すと言われたり、何と
か脱衣所待機で納得したかと思いきや隙あらば入って来ようとされ、詳しい事は割愛する
が様々な責め苦にあった俺は疲れを落とすどころか何倍増しだ。

 こんな状況になったのはそんな理由があった。
 で、棗は脱衣所で待っている間に体が冷えたということで再度入浴中だ。少なくともあ
と30分は出てこないだろう。
「うぁ〜、眠い」
 重くなった瞼をこすりながら顔を時計へと向ける。時計の短針は2、長針は7を指し示
していた。何だかんだで2時間近く入っていたらしい。
 ちなみに部屋は眠りやすいようメイド女達がカーテンで光を遮断し、柔らかい色合いの
電灯が部屋を照らしている。
「さぁて、どうしたもんか」
 この部屋にはテレビや雑誌などは置いていない。いちおう一階に書庫はあったりするが
難しい本ばかりで眠気を払うどころか寄せ付けるだけだ。
 暇をつぶせずどうしたもんかと悩んでいたところで、
「彩樹はおるか!」
 元気のいい声と共に恵が勢いよく扉を開けて部屋に入ってきた。
「ここにいるぞ〜」
「うむ。姉上の姿が見えぬがどうした?」
 隣の席に腰掛けるときょろきょろと部屋を見渡す。
「風呂。あと少ししたら戻ってくんじゃねぇか。棗に頼み事とかでもあったのか?」
「ないぞ。あるのはお主にじゃ」
「俺?」
「うむうむ」
「何を頼むって言うんだ?」
「この姿を見てわからぬか?」
 椅子から飛び降りた恵はその場で一回転してみせる。
 よくよく見れば恵は着物ではなく可愛い猫の絵がいくつも描かれた白いパジャマを着て
いた。愛らしい柄のパジャマで更に愛らしさを増した恵の頭を自然と撫でてしまう。
「くすぐったいからやめよ。それで妾の頼みは予想ついたのか?」
「ん〜。そろそろ寝るっていうのは格好でわかるから……子守歌を歌ってほしい、っての
はどうだ?」
 当てずっぽうの答えに対して恵は透かさず両腕をクロスした。
「ハズレじゃ、馬鹿者。妾を子供扱いするでない。他には?」
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜。わからん、ギブアップ」
「悲しいのう、愛を感じぬのう。少しは妾の行動パターンをわかってほしいものじゃ」
「いやお前等の行動パターンわかれと言われてもほとんどわからんから」
「ほむ、そうか。ではこれから覚えてもらうとするかのう。よいか、妾が今後パジャマで
部屋にやってきた時に頼むのはひとつしかありえぬ。それは添い寝じゃ!」
 両手を腰に当て、胸を張って恵は声高らかに叫んだ。
「愛する方への堂々たる懇願……立派にございます、姫様」
 どこからともなく盟子の声が聞こえてくる。感動する部分に思い切りツッコミを入れた
い所だが姿は見えず。
「ほれ、ハルカ夫婦との諍いに決着がついた際にしてくれると約束しておったじゃろう。
忘れたとは言わせぬぞ」
「……あ〜はいはい、しましたしました」
 ハルカ達と仲直りに一役買ってくれた恵への礼として確かに約束していた。
「じゃが未だにその礼はしてもらっておらぬ。いくら愛する彩樹の所行とはいえ妾は少し
立腹しておるのだぞ」
 そう、約束の後は棗の機嫌が悪かったので断っていたのだ。あんな状態の棗に恵との添
い寝など教えたら命が危うかった。
 後はハル達が来たりとあってすっかり頭から抜けていたらしい。
「というわけで今日は是が非でも妾と一緒に寝てもらうからの」
「約束だったし――」
「却下よ!」
 『仕方ない』という言葉は前から発せられた怒気を孕んだ声に遮られた。顔を向ければ
黒のネグリジェを着た棗が眉毛を吊り上げた顔で恵を睨んでいる。
 俺の視線を感じたのか顔をこっちに向け、
「彩樹は私のベッドで、私と一緒に寝るの。貴女は独り寂しく自分のベッドの中でうずくま
ってなさいな」
 近づいて来るや渡さないとばかりに顔を胸に抱き締められる。湯上がりの肌はいつもよ
り温かく、甘い香りがした。
「妾も彩樹と約束しておる! これ彩樹、姉上に抱き締められてデレデレしておらずにどう
するか答えよ! もちろん妾と共に寝てくれるであろう?」
「もちろん私と一緒よね?」
 恵のやや嫉妬の混じった、けれども約束を守ってほしいと願う眼差しと棗の俺を信頼し
きった、けれども不安の色を混じらせた瞳に困り果ててしまう。
―― 2人を怒らせず悲しませずに円満解決する良い方法はないものか……。
 目を閉じて今まで得てきた知識と経験を検索してみる。
「あ、あの手があったか」
 ものの数秒でこの状況とほぼ同一の状況を解決した過去がヒットした。しかも方法とし
ては簡単だ。もしかしたら完全に納得はしてもらえないだろうが了承は得られるだろう。
「よし。恵、一緒に寝てやるぞ」
「本当か!? 嬉しいぞ、彩樹。ようやくお主は妾に心向けてくれたのじゃな」
 俺の言葉に恵はぱぁっと夏場のひまわりように元気な笑みを零し、
「そんな……彩樹嘘よね?」
 逆に棗は昼下がりの朝顔の如く気丈さがしぼんでしまった。
「嘘じゃない。約束は守るのが俺の鉄則だ。けど、勘違いすんなよ。俺はお前とも一緒に
寝るつもりだぞ」
「え?」
「つまり俺が言いたいのは、だ。あのベッドで3人川の字になって寝れば解決だ! ちょ
っとお前等には不満が残るかもしんないけどな。どうだ?」
 以前、ハルの家に泊まった時にどういう並びで寝るかでもめた事があった。ハルも晴香
も俺の隣がいいとごねたのだ。で、結局は1枚の布団で3人川の字になって寝た。
 そして、窮屈すぎたからか何かに押しつぶされる嫌な夢を見たのを今でも覚えている。
だがまぁ今回は5人寝ようが快適なキングサイズベッドなのだから問題ない。
「確かに不満は残りますが私は構いません。彩樹とあのベッドで寝ることができれば今は
それで……」
 提案を聞いたとたん、しぼんだかと思った朝顔はまた笑顔という花びらを開く。簡単で
誰もが考えそうな方法だったが、笑ってくれたのだから最良と言えよう。
「恵もそれでいいか?」
「姉上と同じ意見じゃ。それとお主らしい解決方法じゃとも。大方ハルカ夫婦とも同じよ
うにもめたのではないのか?」
「ご名答だ。ほらほら、納得したんならベッドに行け行け」
 突っ立ってる二人の背を押してベッドへ。まずは恵が年相応の子供らしく無邪気にベッ
ドに飛び込み、その子供っぽさを姉としての笑みを零しながら棗はゆっくりと、そして俺
は四つん這いで押し返そうとするスプリングの感触を楽しみながらベッドに入り込む。
「ん〜、ハッキリ言って暑いな」
 棗と恵に挟み込まれた俺の率直な意見だった。
「このバチ当たりめと言いたい所じゃが確かにのう」
「部屋の暖房が原因かしらね。誰か、悪いのだけれどこの部屋の暖房だけ止めて頂戴」
 声が発せられて一秒も経たずにメイド女・十三子が姿を現した。
「ういっす。明日の朝には再度稼働するようにしてもよろしいっしょ?」
「お願い」
「あいあいさ〜」
 玲子とは違って妙にフレンドリーな感じを残して十三子は再び姿を消す。程なくして気
持ち部屋が涼しくなった気がした。
「これで眠れるわね」
「だな。……つうかちょっと待て。唐突に思い出したんだが今日って平日だよな?」
 ハル達の結婚式と馬鹿騒ぎがあったのは日曜日だ。その馬鹿騒ぎに疲れて夜が明けたの
だから日曜の翌日で月曜って事になる。
「そうじゃのう。平日じゃ。それがどうかしたのか?」
「お前等学校行かなくていいのかよ」
「何じゃそのような些細なことか。自主休校じゃ、自主休校。あのように騒いで疲れ切っ
た体でつまらぬ授業を受け、一部ではあるが学友からのおべっかを聞くのも嫌々する」
「恵の言うとおりよ。それならこうして貴方に寄り添って……」
 片手で俺の手を握り、もう片方を首に巻き付けてすり寄ってくる。
「温もりを感じて、幸せに満たされながら明日に備えて休んだ方が有意義というものだわ。
それに両想いになって初めてだもの、ね」
「うむ。そのようなチャンスが巡ってきたというに学校など行くはずもなかろう」
「ま、お前等が良いって言うんならいいんだけどな。ところで二人ともあんまりすり寄っ
てこないように。特に棗は胸とか押し付けてくんな!」
「どうして? これくらい恋人なら当然のスキンシップよ」
「いや、俺としては一応そういうのは認められる実力もってからと思っているわけで……
その前に理性を吹き飛ばそうとするのはやめてくれ」
「別に私は……その……彩樹になら構わないわ」
「んな事したら神氏に殺されるから」
 豪快だが温厚で人望も厚い印象を持ったご老人。とはいえ可愛い孫が共にいる能力すら
持ち得ない男に『もにょ〜ん』されたと聞けば大魔神もびっくりの変貌を遂げる気がした。
 むしろ10割の確実で。
―― 意外とそういう所は古くさいというか、しっかりしている人だと思うのだ
 実際は逆だったりしたら笑える話だが。例えそうであってもこの邸で『もにょ〜ん』な
事をしようとは思わない。
 何せこの邸には41人、計82の目が四六時中見張っている。見られて『もにょ〜ん』
できるほど神経図太くはないのだ。
「とにかく! 頼むからあんまり俺を刺激しないように」
「前向きに善処します」
 色々と考えての注意は誠意の欠片もない棗の政治家答弁に一蹴されてしまう。
「善処って……」
「愛故に止められない事だってあるの。……まだ言いたい事がありそうな顔をしてるけれ
ど今日はもうやめましょ。眠くなってきたわ。……今日は良い夢が……そう」
 言い返す前に言いくるめられ、加えて相手が寝てしまったので終了。もう一人も気がつ
けば可愛い寝息と寝顔で夢の中だった。
―― ったく、こっちは色々考えてるってのに。それを理解せずに気持ちよさそうに寝や
がって
 何だか妙に疲れた。口からは自然と重いため息がもれる。
「生活環境は改善されそうだが精神的環境はそうでもないっぽいな……色々と」
 そして誰にでもなく愚痴を漏らしてから目を閉じると、気持ちいい温もりに包まれなが
ら、ゆっくりと眠りへと誘われていくのだった。


←前へ  目次へ  次へ→