八十八話「変化 ―其の3―」

 静かな室内を紙の擦れる音が支配する。
 みんな黙々と作業をこなしていた。かくいうウチも神経を集中して同じ作業を行ってい
る。間違うと最初からやりなおしになるからだ。
 それは面倒だし、何より早く終わらせて朝食兼昼食を食べたい所だった。
「む〜〜〜〜〜」
 紙の擦れる音に混じってハルの不満げな唸り声が耳に届く。生来の面倒くさがりである
ハルにはこの作業は辛いに違いない。
―― 後で膝枕してあげないと
 そうすれば大抵の場合は機嫌がよくなる。何だかちょっとペットっぽいが、そんな所が
可愛くて好きだったりした。
「む〜〜〜〜〜〜……む!?」
 不満げな唸り声は驚きを表す声と共に止まった。よほど驚くものを見つけたらしい。そ
れが一体何なのか気にはなるが、今は自分の割り当てを終わらせるのが先決だ。
 数えた枚数を思い出しながら数える対象を見つめる。誰もが知っていて、恐らく誰もが
ほしがるであろう……諭吉さんを。
 そう、ウチらが総出で数えているのは諭吉さんの枚数であった。正確にはご祝儀の金額
確認だ。意外と多かったので手分けして確認していたというわけである。
「……しゅ〜りょ〜。やぁ〜っと終わった」
 大きく息を吐いてからウチは凝った肩をほぐす。数分といえど同じ格好で集中して作業
するのは意外と疲れてしまった。
 一通りほぐし終えると、さっきから黙っているハルを見た。何やら一枚の紙をじっと凝
視しては目をこすったり、頭を左右に揺らしたり、叩いたりしている。
 余程信じられないものを発見したらしい。
「な〜に見てんの?」
 後ろから覗き込む。
「……これ、何て書いてある?」
「小切手」
 指さされた部分を読む。
「じゃ、ここに書いてある数字は?」
 指がほんの少し下がって書かれている数字を示す。左からゆっくりそれを数えてウチは
数秒ほど凝視してから目をこすったり、頭を左右に揺らしたり、叩いたりしたが数字に変
化は表れない。つまりは夢じゃないってことになる。
「……マジ?」
「たぶん」
「誰の袋に入ってたの?」
「嫌なヤツ」
「棗ちゃんか。確かすんごいお金持ちって言ってたけど……」
 これはどうかと思った。
 いや、もしかしたら大金持ちでは普通なのかもしれない。かといってウチら庶民にはあ
まりにも非常識だ。もう一度、小切手に書かれた金額を見る。やはりそこには1の後に0
が8つあった。
 降ってわいた一攫千金に喜ぶ人は踊り出すくらい喜ぶだろう。が、ウチとしてはそのあ
まりに非常識な金額にただただ頭が痛くなるだけだった。
「……5円チョコいくつ買えるかな?」
「んなしょうもないこと考えないのっ! ああもう、こんな大金どうすんのよ。10万円く
らいなら太っ腹とか思うけど、いくらなんだってこれは桁違いだし」
「母さん達にお伺い」
「だよね。ねぇお母さん、あ〜ちゃんの恋人さんからすんごい金額のご祝儀が――」
 この一大事を報告しようと振り返ると4人の親が一同1枚の紙を凝視して固まっていた。
―― ま、まさか……。
 そのまさかだった。ハルパパの手から奪った紙もやはり小切手で、こちらには5000
万円の金額が書かれていた。
 今度は眩暈がした。後ろに倒れそうになった所をハルが支えてくれる。
「……これは誰から?」
「え〜と、法光院恵って書いてあるわ。確か彩樹さんの恋人さんの妹さんね。小学生くら
いの女の子。いくらお金持ちとはいっても小さい子からこんな大金をもらうのは良くない
わね。返しましょ」
「もったいないかも。……これだけあれば蟹食べ放題」
 莉愛さんの正論に航さんがボソッともらす。
「あ・な・た、今何か言いまして?」
 が、その意見は笑顔の裏に隠された底冷えするような威圧感によって封殺された。
「夏子、それに拓さんもよろしいわね?」
「はいはい、すご〜〜〜くもったいない気もするけど莉愛ちゃんの言うとおりだしね」
「だな。子供からんな大人顔負けの大金もらうわけにはいかんだろ。てかよ、あっくんも
すんげぇ子に見初められたもんだ」
「玉の輿に乗るなんてさっすがあたしらのあっくんって事じゃない。今度会ったらご飯で
も奢ってもらおっと。ん〜、実は一度でいいからフレンチフルコースとか食べてみたかっ
たりするのよねぇ」
「おめぇ子供にたかるなよ」
「蟹……海老、大トロ」
「航、お前もだ」
「は〜いはいはい、静かに。この2枚は返すということで決定とします。そういう訳です
から晴香さん、ハル、2人を知っている貴方達で話をつけてもらえますかしら」
 手を叩いて騒ぎ出した人達を黙らせると、莉愛さんはそう言った。
「うぃ〜っす」
 素早くポケットから携帯を取り出すと、恵ちゃんの番号をメモリから呼び出す。
「あ、ハルは棗ちゃんの方をお願いね。彼女の番号知ってるんでしょ?」
「……む〜」
 渋々といった感じだがハルも携帯を取り出す。
―― けど、恵ちゃんも棗ちゃんも結構頑固なんだよねぇ
 返すと言って素直に了承するようには思えなかった。
―― まぁ、恵ちゃんはこっちが困っているとわかれば大丈夫かな
 問題は棗ちゃんの方だ。ほんのちょっとしか会話をしていないけど喋り方、あ〜ちゃん
との接し方で何となくわかる。彼女は凄い頑固ものだと。
―― しかも彼女もハルを好きじゃないっぽいから本題に入れるかすら危ないんじゃ
 何て危惧していると、
「あぁ? 貴様は何様だっ」
 先に繋がったらしいハルが戦闘モードに突入していた。何か癪に障ることを言われたの
だろう。きっと言い返すことし考えない頭になっているはずだ。
―― こりゃ骨が折れそうだわ
 自らの失敗に大きくため息をついた所で向こうと繋がった。大きな深呼吸をひとつして
からウチは説得を開始する。

 お昼ご飯を食べられるのはまだまだ先になりそうだった。

―― 何だろ、ちょっとあ〜ちゃんの被ってる苦労がわかった気がする


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