八十七話「変化 ―其の2―」

 すっかり馴染んでしまった邸内を歩いていると自然と欠伸が漏れる。車内でけっこう寝
たはずだが騒いだ疲れが抜けてないらしい。
―― 部屋に戻ったら寝直すか
 座りっぱなしで凝った肩や首をほぐしながら棗の部屋に戻った俺は、目的の場所を見て
唖然となった。
 ないのだ。式場へ出発するときは確かにあったのに、寝床であり我が城であった畳が綺
麗さっぱりなくなっていた。毛布代わりのボロ布もライトも一切ない。
 そこに畳があったという事実すら嘘のように思えるほど綺麗になっている。
「おいおいおい、いったいこれはどういうことだ!? ここは俺の陣地だったはずだぞ!」
 たった1畳。されど1畳。居場所を奪われて怒らずにはいられなかった。
「急に怒ったかと思えばそんなこと」
 ベッドに腰を下ろしていた棗は手で髪をすきながら事も無げに呟く。
「そんな事だと!? ここの陣地がなくなったらどこで寝るってんだよ! まさか外じゃ
ねえよな?! この時期外で寝たらマジで凍死するぞ!」
「誰が外で寝ろと言ったの」
「んじゃあ、どうして俺の寝床を奪ったんだ!」
「きちんと説明してあげるから、まずは軽く深呼吸して気持ちを落ち着けて」
 妙に優しい声色に毒気を抜かれた俺は言われた通りに2,3度軽く深呼吸を繰り返した。
それを見た棗は軽く咳払いしてから、
「では説明します。彩樹……わ、私達は昨日……その、何です。恋人同士になりましたね?」
「ああ」
「そう、恋人……なんて甘美な響きかしら。恋人……ふふっ、いいわ」
「……もしも〜し、何やら幸せに浸ってるところ悪いんだが説明をしてくれ、説明を」
「わ、わかってます。つまりです、恋人である貴方はもう狭い畳1枚の上で寝る必要はな
くなったの。だから畳は片付けさせました」
「んで、肝心の俺の寝床はどこだってんだよ? 別の部屋か?」
 そう言ったとたん、柔らかかった棗の表情が一瞬にしてムスッとした表情へと変わった。
眉根にも皺が寄っているところを見ると言ってはならない事を口にしてしまったらしい。
「何度もいいますが私達は恋人です。お互いを好いて、愛しているんです! であれば貴
方が寝る場所はひとつしかないでしょう!」
 声を張り上げた棗はベッドとバシバシと叩いた。
 ほんの数秒ほど言葉の意味が理解できなかった。が、黙った俺を見てもう一度、まるで
誘うように棗がベッドを叩くのを見て理解し、同時に顔が紅潮していくのを感じた。
―― ええい、落ち着け! 少し考えてみりゃ予想できる展開じゃねえか。
 愛し合う2人が一つ屋根の下、しかも同じ部屋なのだ。むしろ予想どころか僅かでも望
もうとしなかった俺に問題有りな気がしないでもない。
 と、男としてどうかという問題はひとまず置いておいて。
―― この後、男としてどういう感じに行動すべきだろうか!
 1秒と経たずに問題は帰ってきた。
―― やっぱ余裕を見せながら隣に座ってリードするか
 ぶっちゃけるとそんな余裕はなかった。しかも赤い顔のまま固まってちゃ余裕がないの
はまるわかりだろう。
―― となれば、やはりこのまま正直にさび付いたロボットよろしく動いて固まるか
 他にも案を考えたいところだが、そろそろ行動しないと棗の機嫌が不機嫌から怒りへと
変わりそうだった。
―― よし、こうなったら当たって砕けろ精神しかねぇ!
 一度背を向けてから軽く深呼吸し、幾分気持ちを落ち着けてから踵を返して棗の隣に腰
を下ろすと、そっと肩を抱き寄せてみた。
「あら、彩樹にしては大胆ね」
 嬉しそうに棗はそう言うと頭を肩に預けてくる。
「お前がこうしてほしいんじゃないかって思ったんだよ」
「彩樹はこうしたいと思ってはくれなかったの?」
 痛い指摘に俺は小さく呻いてから、
「お、俺はしたくないことはしない主義だ」
「ふふっ、そうね。……ね、こうしてみてどんな感じ?」
「こっ恥ずかしいったらありゃしない。知り合いに見られたら間違いなく逃げる」
「恥ずかしいだけ?」
「……それが不思議なんだ。最初は恥ずかしくって仕方なかったのによ、急に落ち着くっ
ていうかさ。……だからかな、疲れもあって、少し……眠くなってきた」
 ゆっくりと重くなった瞼が降りてくる。抵抗する気は毛頭無かった。このまま眠れば良
い夢が見られそうだ。
「悪い、ちょっと寝かせてもらうわ」
 そう言って俺は伝わってくる重みと温もりを感じながら深い眠りへと落ちていった。

「むっ」
 道(ロード)から帰宅するなり押し入れを漁っていた不意にハルが不満げな声を上げた。
気になって後ろから覗き込むと、ハルの手にはアルバムが握られていた。
「アルバムがどうかした?」
「……嫌なヤツの映ってる写真があった」
「嫌なヤツ? どれどれ?」
 無言でハルは一枚の写真を指さした。
 そこにはやはりあ〜ちゃんの写真だった。気持ちよさそうに寝ている姿だ。でも、その
隣には小さな女の子が寝ており、2人は一緒にいたいと意志表示するかのように手を繋いで
いた。あ〜ちゃん大好きっ子のハルには確かに嫌な写真だろう。
「別に女の子と寝ている写真の1枚くらいいいじゃない。ウチと寝てるあ〜ちゃんの写真
だってあるんだし」
「晴香やそこいらにいる子だったら文句はない。けど、こいつだけは嫌だ」
「ん〜。ハルがそこまで毛嫌いする子……もしかして、この子ってば棗ちゃん?!」
 ハルは小さく頷く。
 よくよく見てみれば確かに彼女だった。あ〜ちゃんが側にいるからか幸せそうな表情を
浮かべている。あ〜ちゃんも満更ではない表情だ。
「もう諦めなって。娘を渡さない頑固オヤジっぷりも続け過ぎたらあ〜ちゃんに嫌われち
ゃうかもよ」
「む〜〜〜〜」
 と唸りながらハルは写真をアルバムからその写真を抜き取ってウチに差し出してきた。
いらないから煮るなり焼くなり好きにしろといいたいらしい。
 ウチは『あ〜やメモリアル』と題されたハルお宝のアルバムから追放された写真を受け
取って再度映っている2人を見る。
―― この頃から2人が両想いになるって決まってるみたいに思えちゃう
 あ〜ちゃんを奪われた身としては少し妬いてしまって、けれどそれ以上に2人が両想い
になった事を祝福したい気分だった。
 だがしかし……。
「ウチは今のところ恵ちゃんの味方だから、まだまだ幸せだけの生活は送らせてあげない
ぞっと」
 小声で呟きながら写真に映る握られた2つの手を弾く。
「何か言った?」
「ん〜ん、べ〜っつにぃ」
「晴香〜、ハルく〜ん。ちょっと手伝ってほしいからこっちに来て〜」
 ハルの問いに答えた所で母さんに呼ばれる。
「今行く! ハル、いこ」
 写真を机の上に置いてからハルの手を取って部屋を出るのだった。


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