第七十三話「心友―現在―」

 家を飛び出した俺は走りに走って家から3キロ離れた工事現場にたどり着いた。

「そこで俺はハルを見つけた」
 来たこともない場所で。ついさっきまで知らなかった場所で。けど、気付いたら俺はハ
ルがそこにいることを知っていた。工事現場の最奥置かれた土管の中でハルが助けを求め
ていると。
「遠くからの声が聞こえて、たとえついさっきまで知らなくても相手の……ハルの居場所
がわかっちまうんだ。変だろ。普通じゃ考えられない」
「いいえ。変だなんて思いません。むしろ芦原春賀が羨ましいとさえ思います」
 そう言うと棗はそっと俺の肩に頭を預けてきた。

―― 本当に羨ましい。
 彩樹の話を聞き終えた私は芦原春賀に対する強い嫉妬を覚えた。離れていても助けを求
めれば彩樹が来てくれるという彼だけに与えられた特権が妬ましかった。
―― どうして私にはその特権が……絆がなかったの。
 今でこそ彩樹は傍にいる。けど、芦原春賀と同じ特権があればもっと早くに彩樹は傍に
いてくれたに違いない。
 芦原春賀を助けたように私も助けてくれていた。……きっと。そう、初めて私を救って
くれたときのように。
「お、おい。急に何だよ」
 手を取って強く握りしめた事に困惑した彩樹の顔を見上げながら私は笑って見せた。
「嫉妬を幸せで消しただけです。芦原春賀には彩樹と強い絆という特権がある。なら私は
常に彩樹の傍にいるという特権があるって思いたいの」
「いや、それは……何だ……えっとだな……む〜」
 更に困ったのか彩樹は眉根に皺を寄せる。けれども表情を見る限りでは心配はなさそう
だった。望む結果はそう遠くない。
―― 今はそれがわかっただけで十分。
 焦らず、ゆっくりと一緒に歩めればそれでいい。だから……。
「ふふっ。答えは後で構わないわ。今は芦原春賀の事だけを考えなさい。……絶縁宣言を
した芦原春賀が助けを求める理由は何なのかしら」
「それがわかれば苦労しないっての。とにかく行くしかないんだ。言って、話して、助け
られるなら助ける。それだけだ」
「……そうね。なら急がせましょう。彩樹の家へ急ぎなさい。1分でも1秒でも早く」
 私は受話器を取って耳に当て、ルクセインが問いかけてくるよりも早く目的地を告げた。

「まさか、こんな形で家に帰ってくるとは思わなかったな」
 半年ぶりの我が家。最初はあれだけ帰りたかった我が家。今では意外とそうでもなくな
った我が家が目の前にあった。
―― そう、今じゃあんま帰りたいって思わないんだよな。
 我が家を見て俺は改めて思った。最初のひと月はどうやって帰るか色々と思案していた
のが嘘のようだ。
―― まあ、慣れっていうのは恐ろしいってことか。
 とりあえず今はそうしておくことにした。
 もう一度我が家の状況を見た。深夜だけに明かりはついていない。さすがにこの時間じ
ゃ母さんもあのんも寝ているのだろう。
―― あのクソ親父は仕事でいないんだろうがな。
 連れ去られる寸前の話しじゃ法光院の力で会社は建て直しているはずだ。となれば仕事
の虫であるクソ親父は家族そっちのけで働いているに違いない。
「ま、そんな事はどうでもいいか。今は……」
 顔を我が家からハルの家へと向ける。そこには……。
「よう」
「……2日ぶり。あ、午前零時過ぎたから3日ぶりか」
 家から出てきたハルは最後に見せた怒りの顔とは真逆で穏やかな笑みを浮かべていた。
「短い絶縁期間だったな。……で、何から助けてほしいんだ?」
「……………実はオレ達の部屋にまだ恵ちゃんがいるんだけど、あの子に言われたんだ」
 そこで一呼吸。
「『彩樹が嘘つきでよかったのう』ってさ。どういう意味かわかるかい?」
 全く意味がわからず俺は首を左右に振った。
「オレも最初は意味が理解できなかった。嘘吐きは最低だってずっと思っていたから、良
い嘘吐きなんて理解したくなかった。反論したよ。でも、あの子が次に発した言葉を聞い
て理解したんだ」
「恵は何て言ったんだ?」
「あ〜やが嘘つきじゃなかったらオレと晴香は結ばれていなかった、今のオレの幸せはな
かっただろうって。それを聞いて血の気が引いた。だってあの子が言ったことは事実にな
っただろうから。きっと幸せそうな晴香を見て喜んでいても心の中では………」
 その先は続かなかった。ハルは空を見上げたかと思うと大きく息を吐く。再び俺の方へ
戻されたハルの顔は苦渋に満ちていた。
「それでオレは嘘吐きにも良い悪いがあるって理解した。あ〜やが良い嘘吐きで良かった
と思った。同時に嘘に対する怒りであ〜やを傷つけた事が酷く許せなくて、辛くて、悲し
くなった。大切な心友を失ったんだと思ったらどうすればいいのかわからなくなったんだ」
「だから俺に助けを求めたのか?」
 小さくハルは頷く。
「どうすればあ〜やが許してくれるかわからなかったから、本人に聞くしかないと思って。
無理かもしれないって思ったけど呼んでみたんだ」
「そうか……」
「……ねえ、あ〜や。どうしたら、何をしたらこんな馬鹿なオレを許してくれる?また今
までのように接してくれる? オレに出来ることなら何でもする。あげられるものなら何
でも、だから……だから……」
 身を震わせながら顔を俯かせるハルを見て俺は胸が苦しくなった。
―― 違う。
 こうすべきなのは俺のはずだ。泣いて頭を下げて謝るのは俺だったはずなんだ。なのに
下げているのはハルの方で。明らかにハルの方が苦しんでいて……。
「違う! 許してもらうのは俺の方だ。俺はお前の晴香に対する想いを知ってた。なのに
OKして、代わりだって事に気付いて勝手に振って……許しを請うのは俺の方なんだよ!」
 許す側である事が我慢できず俺はその場に土下座をして許しを請う。こうするしか今の
俺にはできなかった。
 嗚咽が止まる。でも返答はない。
 驚いているのか困惑しているのか、それとも別の理由なのか。地面に額をつけている今
では何もわからない。ただ無性に怖くて苦しい静けさだった。
「うん。許しちゃう」
 そんな静けさの中にあっけらかんとした声が発せられた。
「はる……か?」
 恐る恐る顔を上げると、後ろからハルを抱き締めた格好の晴香が笑っていた。発せられ
た言葉同様に全部許すと言わんばかりに。
「けど、許すっていうのはハルに嘘を吐いてた事についてだけだよ。だってウチと付き合
ってた事まで謝られたらあの時の幸せも嘘だって言われたみたいでヤだもん。ね、ウチが
許したんだからハルも許してあげよ?」
「うん。許す。あ〜やはオレと晴香を幸せにしてくれた。これからも幸せでいる為にはあ
〜やが必要だから……だから許す」
「ほらほらあ〜ちゃん立って」
 差し伸べられた二つの手。向けられた二つの笑顔。もう二度と触れられないと、向けら
れることはないと、見ることが出来ないと思っていたもの。
 手を取れば全てが戻ってくる。何もかも元通りになるだろう。
―― けど、それでいいのか?
 二人を傷つけて、なのに自分は同じだけの傷を負っていないのに許してもらっていいの
だろうか。こんなにも簡単に許してもらって本当にいいのかと。
「いいのか? 俺は……お前達を傷つけた分の償いをしてないんだぞ?」
 不安になった俺は二人に問いかけていた。
「もち。ハルも言ったじゃん。あ〜ちゃんがウチとハルを幸せにしてくれたんだよ。これ
からもあ〜ちゃんがいれば幸せになれるの。それで十分じゃん」
「償いはオレ達をもっと幸せにするって事で合意」
「けどな――」
「はいはい。うじうじしないの。そんなのあ〜ちゃんらしくないよ? ほ〜ら」
「そっちからこないならこっちから」
 二人の手が中空を彷徨う俺の手を掴む。
『掴まえた』
 がっちりと力強く掴まえられた。離してくれそうにない。でも、その力強さが二人の言
葉をより代弁してくれている。

 それが何よりも嬉しくて……。

 俺は二人に飛び付くと近所迷惑を考えずに大声で泣いた。

 それから少しして……。

「うむうむ。よきかなよきかな。真なる友情とはこういうものを言うのであろうのう」
 恵の声に俺は慌てて二人から離れると服の袖で涙を拭った。
―― って、どうせ全部見てただろうから遅いか。
 心の中で苦笑しつつ後ろを振り返る。
「よぅ」
「う、うむ」
 振り返った先にいた恵は両腕を組んだ格好で立っていた。その横では侍女の盟子がハン
カチで目元を拭っている。
「感度の場面に水を差すつもりはなかったのじゃが、お主達を見ておったらつい声に出し
てしまった。許せ」
「ああ。別にお前なら構わないって。全部お前のおかげなんだからな」
「そ〜そ。恵ちゃんの言葉があってこその今なんだし」
「肯定肯定」
「そうか。で、お主達はこれからどうするのじゃ。感動の続きをお主達の部屋でするつも
りか?」
 恵の問いかけに晴香は首を横に振った。
「ウチらは帰って寝るよ。明日も学校に銭湯に大忙しだから。ん〜〜〜〜! 気がかりが
なくなって今日はぐっすり眠れそ」
「だね。予想として明日は寝坊で学校サボリ」
「あははは。ありえるあえりえる。あ、そうだ。あ〜ちゃんはもう学校こないの?」
「学校か。勉強好きじゃねえからあんま行きたいとは思えないんだよな。つうか、既に退
学になってるしよ」
「そっか。じゃ、次に逢えるのはいつかわからないね」
 言われて俺は改めて二人との接点がまったく無くなっている事に気付いた。学校は既に
退学。俺は家にいない。
 ハルと晴香の家は邸からかなり離れている。4つあった接点が今ではゼロになっていた。
―― 確かにひとつもないってのは辛いな。
 どうにかして接点を作りたい。かといって容易に作れるものではないようにも思えた。
 と、
「ならばお主達が邸くればよかろう。妾に連絡をくれれば迎えを出してやるぞ」
 悩む俺を余所にあっさりと恵が解決案を提案してしまった。それを聞いたとたん、晴香
が恵に抱きつく。
「くぅ〜。恵ちゃんさいこ〜♪じゃさじゃさ、連絡先教えてよ。これがウチの携帯の番号
で、こっちがハルの番号だから」
「ほむ。盟子、番号を控えたらこちらの連絡先を教えてやるのじゃ」
「はい。直通回線で構いませんでしょうか?」
 恵が小さく頷いて答えると、盟子は着物の袖から紙とペンを取り出し、差し出された携
帯から番号を書き記していく。
「では、こちらに書かれております番号が姫様の専用回線となっております。この番号に
おかけくだされば姫様の携帯お電話へ繋がります」
「了解。登録登録っと。ほら、ハルも一緒に登録しなよ」
「うい〜」
 晴香に従ってハルも携帯に番号の登録をはじめる。
「で、いつなら行ってもOK?」
「平日も夜ならば構わぬぞ。妾が間借りしておる部屋で過ごせば姉上も文句は言うまい。
宿泊も認めてやってもよい」
「ん〜。じゃ、明後日くらいに予定たてて連絡するってことで」
「うむ。承知した」
「そんじゃ。あ〜ちゃん、またね」
「あ〜や、また会おう」
「……ああ。ああ、またな!」
 手を振る二人に向かって俺も手を振り返す。二人が見えなくなった所で俺は大きく息を
吐いてから後ろを振り返って、
「ありがとな。あいつらと仲直りできたのは全部お前のおかげだ」
 改めて恵に感謝した。
「頭を上げよ。決縁者として当然の事をしたまでじゃよ。あのままお主に辛い思いをさせ
たくなかったしのう。力になれて幸いじゃった」
「しっかし、何か礼したいけど何もあげられるもんがねえな」
 所持金1万。所持物品は服や生活用品のみ。前者も後者も恵にとって間違いなく欲する
ものではないだろう。
―― 1万で何か買ってやるか。いや、そんなものでこのお姫様が喜ぶか? う〜む。
 どうしたものかと悩んでいると手を掴まれた。
「ならば帰ったら添い寝してはくれぬか? 最近夢見が悪くてのう。嫌ならば他の事でも
構わぬが……」
「添い寝か。オッケーオッケー。そんな事ならお安いご用だってんだ」
 意外に簡単な要求に心の中で安堵した。
「うむうむ。なれば早速邸に戻ろうぞ。盟子、車を連れてくるのじゃ」
「かしこまりました」
 恭しく一礼した盟子が姿を消すと同時に恵が腕に抱きついてきた。8歳という年相応の
無邪気さ。だが容姿とは裏腹にその言動は多くの者を動かしてきたのだろう。
―― ホント、大したヤツだ。
 きっと大人になったら多くの男を惹きつけるいい女になると思った。

 程なくして盟子と共にやってきたリムジンに乗って邸へ向かった。

 帰路の途中……。

―― う〜む。ハル達との事も解決して何の不安もないはずなんだが……。
 妙に胸の辺りがもやもやしていた。
―― 何かハル達に言い忘れた事でもあったか?
 二人との会話を思い出しながら原因を探る。と、ひとつだけ言っていない事があった事
実に気付いた。
「あ、そっか。あいつらに結婚式の日取り聞くの忘れてた」
 来週とは聞いていたが正確な日取りや場所を聞いていなかった。きっと心友の結婚式に
行けないかもしれないという不安がもやもやの原因だったのだろう。
―― 間違いないな。
 現に気付いた今はもやもやがなくなっていた。原因がわかれば解決も楽だ。
―― 確か明後日に晴香が恵に連絡するって言ってたな。
 そこで日取りや場所を聞いてもらうことにしよう。

「これにて一件落着ってか」


 同時刻、恵のリムジンより500m後方より……。

「……ッ。不愉快です」

 ガラスの割れる甲高い音が車内に響き渡った。


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