第七十一話「診察」

 授業もHRも終えて学校を出る。束縛するものはない。自由だ。
 どこかに寄り道してもよし。帰って晴香の家で騒いで、疲れた体を春の湯で癒すのもよ
し。他にも色々出来ることがある。ハルと晴香と俺の3人で。ずっと、ずっと、これまで
もこれからも……。
「なあ、今日はどうするよ?」
 いつも通り俺は前を歩く二人に問いかけた。今日はどんなことを一緒にしようか、と。
「独りで勝手にすればいい」
 いつものあっけらかんとした声とは違う。氷のように冷たく、親しさの欠片もない返答。
予想もしなかった対応に俺は少しばかり絶句してしまう。
「えっと、悪い。もう一回言ってくれ」
「いいよ。あ〜やの顔は見たくない。オレも晴香も。だから……」
 ハルの手が俺の胸を押した。

『だから、二度とオレ達の前に顔を見せるな』

 離れていく。ハルが。晴香が。遠く、どんどん手の届かない存在になってしまう。
―― い、嫌だぞ。俺は……。
 二人との繋がりがなくなるなんてゴメンだった。それほどまでにハルと晴香の存在は俺
にとって重要で大きいのだ。
「ハル……晴香……」
 名前を呼びながら小さくなっていく二人へと必死に手を伸ばす。
―― 届け! 届け、届け、届け……。
 必死に願いながら。

「届けぇーーーーーーーっ!!」
 二人に向かって右手を伸ばすと……むにゅ、という何とも柔らかい物体を掴んだ。
―― ……ん?
 視界が真っ暗なのでソレが何なのかわからない。とりあえず感触だけで憶測しようと右
手を『にぎにぎ』してみる。
 柔らかい。例えるならパワーリスト。あの中身の砂を握った感触に似ていた。他には柔
らかめのゴムボールだろうか。
―― しっかし、そんなもんが空中にあるだろうか?
 間違いなく俺は手を上に向かって伸ばしている。ということはソレは宙に浮いているか、
たまたま手を伸ばした場所にあったかのどちらかだろう。
 はたしてその正体はなんなのか。
「で、いつまでワタシの胸を鷲掴み、あまつさえ揉みしだくつもりかね?」
 心の中で首を傾げると同時に苛立ったような、だがどこか楽しげな響きをもった声が耳
に届く。
「……目をあけたまえ」
 言われた通りに目を開けると、見慣れた天井が目に入った。そう、もう見慣れてしまっ
た棗の部屋の天井だ。
「こらこら、見る方向はこちらだ」
 横から手が伸びて無理矢理顔の向きを変えられる。と、ひとりの女が視界に入った。年
は20代前半ぐらい。ノンフレームの眼鏡に白衣といういかにもインテリっぽい格好が特
徴だった。
「で、いつになったら君はワタシの胸を解放してくれるのかね。んん?」
 言いながら女は指で何かを指差した。俺は指先へと目線を向けて……固まった。
―― 胸ですよ。
 推定サイズ……測れる訳がない。そんなスキルは持ち合わせていない。ただ、手より大
きいとだけ言っておこう。その胸を俺は鷲掴みしていたのだ。柔らかい物体の正体は胸だ
ったんだ。
「な、何てベタな展開してんだ、俺は?!」
 慌てて俺は胸から手を離した。
「いや、その、悪い。別に悪気があって掴んだわけじゃなくてだな。その、掴みたかった
モノを掴もうとしたらどうやらお前の胸が……」
「別に気にしてはいない。患者の性の悩みを解決してやるのも医者としての務めだ。まあ、
次に揉んだ場合はそれなりの報酬を要求するから覚えておくように」
「あ、ああ。んで、お前は誰だ?」
「マドカ。この国の通貨である文字で円(マドカ)だ。本名は別にあるのだが、協会からこ
の名以外を名乗るなと言われている。だからワタシの事は円と呼べ」
「……協会?」
 俺の問いかけに円は小さく頷いた。
「そう、協会だ。医師免許を持たず、しかし天才的医療技術を持った者達が集まる機関…
…<サークル>というのが名称だぞ。故に<サークル>のメンバーは全て『円(マドカ)』
を名乗る。男女問わずな。ちなみにワタシの<サークル>での呼び名は円427だ。なか
なか素敵なナンバーだと思わないか?」
「いや、427(しにな)なんて医者としては最悪の番号だろ」
 正直に思った事を円に叩きつける。427の語呂が好きな医者というのも何というか考
え物だと思った。
「……まあ、そんな事はどうでもいい。で、体に痛みはあるか?」
「あ? 痛みって……」
 痛みという単語で思い出す。ハルとの戦い、そして叩きつけられた言葉が頭に響く。
『もうオレ達の前に現れるな』
 ちくりと胸が痛み、それが全身へと広がっていき……。
「……くっ」
 目元に涙が浮かぶのを必死にこらえた。
「ん? 痛むか。だろうな。全身20カ所の打撲だ。鎮痛剤も投与していないのだから痛
むだろう。鎮痛剤は必要か?」
「いや、いい」
 この痛みを薬で無くす事などできない。これは俺に対する罰なんだ。
―― ハルと晴香に、そして自分に嘘を吐き続けてきた……罰なんだ。
 だから鎮痛剤は必要ない。幸い痛いだけで体は動く。
「………よかろう。苦痛に耐えたければ耐えればよい。だがあまり心配をかけるなよ」
 そう言って円は指で対面を指差す。

 そこには……。

「ああ。わかってるよ」
 ベットに倒れ込んだ格好で眠っている棗を見ながら俺はそう答えた。
「彩樹……私が………いて……る。……て……あげ……る………」
「寝言で名前を呼ばれるとは君は余程彼女に思われているんだな」
「……そうらしい」
「そうか。……さて、ワタシはこの辺で失礼しよう。念のための鎮痛剤を置いておく。あ
あ、他にも栄養剤と……ふむ、これも必要になるかもしれんか」
 そう言って鞄から取り出されたのは『スッポンパワフリング』というラベルの貼られた
小瓶。しかも10本だ。
―― スッポンときてパワフルって事はだ。
 間違いなく精力剤だろう。
「ん? これ一本で絶倫だぞ。一発で相手を妊娠させるかもしれん。子供がたくさんほし
い時に使うといい」
 真顔で円が言う。
「いや、いらないって」
「何故だ。……まさか、不能者か?」
「違うっつうに! 俺は正常だ! つうか、何で急に下ネタトークなんだよ」
 何だか頭が痛くなってきた。下ネタにはクソ親父で慣れたと思ったが、暫く聞いてなか
ったから免疫なくなったらしい。
「そうか。君達には少し早かったか。ならば持ち帰ろう。……では、棗によろしくと報酬
はいつもの口座に頼むと伝えてくれ」
「……ちょっと待ってくれ」
 聞きたい事を思い出して俺はノブを掴んだ円を呼び止めた。
「何だ。やはり必要か? 仕方のないヤツだ。ほら、こっちに取りに来い」
「いらねえよ! 別の事だ」
「ふむ。言ってみろ」
「報酬っていくらぐらいなんだ?」
 気になった。何だかよくわからない協会から派遣された無免許医師。だが棗も信頼する
場所なら腕は問題ないのだろう。
 問題は……その報酬だ。
「高いのか?」
「……気になるか。気になるだろうな。男なら気になって当然だ。しかし、聞いて後悔し
ないか?」
 それは俺なんかが考えている額とは桁が違うと言っているのか。はたまた、そう思わせ
ようとしているのか。
―― 前者だろうな。
 考えるまでもないじゃないか。だからこそ聞きたかった。俺がどれだけの借りを作った
のか知りたかった。
「ああ。聞かせてくれ」
「では言おう」
 軽い咳払いの後に円は報酬額を口にした。

 それから1時間程して棗は目を覚ました。

「あ……彩樹?」
 顔を上げた棗がボーっとした面構えで俺を見上げてくる。まだ少し寝惚けているんだろ
う。頭が左右にゆらゆら動いていた。何というか面白い。いつも隙のないヤツが隙を見せ
ている。気付くと手が勝手に棗の左頬を摘んでいた。
「ああ。いかにも俺は室峰彩樹その人だ。お前は?」
 問いかけてから摘んでいた頬を引く。
「このわたひのなまへとかほをわふれるてふと?」
「…………」
「わふれたほ?」
「………ぷっ」
 我慢は数秒ともたなかった。堰を切ったかのように笑い声が口から飛び出した。笑うだ
けで全身が痛みで悲鳴を上げた。でも、そんな痛みで止められない程の威力が今の棗には
あった。
「……そう。わらへるのはらだいひょ……って私に何をしているの!」
 ようやく笑いの原因に気付いた棗は頬を摘んでいた俺の両手を振り払い、勢いよく立ち
上がった。
「面白い事だ。おかげでハル達の事で落ち込んでたのが少し楽になった。サンクス」
「……いいでしょう。今回の事は不問にしてあげます。けれど、次はありませんよ」
「へいへい。わかって……」
 そこまで言いかけて俺は口をつぐんだ。
―― 今のは……。
 痛む体にむち打って俺はベットから降りた。
「どうしたの? 体が痛むのでしょう。鎮痛剤なら私が飲ませてあげるからベットで――」
「なあ、棗。行きたい所があるんだけど連れてってくれないか」
 棗の言葉を遮って俺は頼む。
 感じた。答え終えようとしたとき、もう感じないと思ったあの感覚を感じてしまった。

 だから俺は行かなくちゃならない。

「どこへ連れて行ってほしいというの?」

 棗の問いかけに対して俺は笑って答えた。

「俺の心友がいるところだ」


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