第七十話「もし、あのとき……」

 芦原春賀が彩樹に決別の言葉を叩きつけて立ち去った後……公園脇にて。

 車の中で公園での出来事をメイドの『ミミミ』から全て聞き終えた私はシートに身を委
ねて彩樹の到着を待っていた。
―― あの時の事が今になって問題になるなんて……。
 思いもよらなかったし、再び彩樹と出会えた私にとっては不要な記憶だから今の今まで
記憶の底に忘れ去っていた。
 私にとっても辛い過去。幸せが一瞬にして苦痛へと変わったあのとき……。
「12年前……」
 目を閉じて私は忘れ去っていた辛い過去の記憶を振り返った。

 必死に抵抗し、けれども抵抗しきれずに彩樹の前から姿を消すしかなかった12年前のあ
の日のことを。

 彩樹が幼稚園を卒園した翌日。

 その日も私は彩樹と一緒の時を過ごそうと7時に目を覚まして出かける準備をしていた。
―― 今日はどの洋服で行こうかしら。
 姿見の前で私は真剣に悩む。
 彩樹の好みは活発な子よりも静かな子という情報を得ているから、ワンピースかシャツ
とスカートという組み合わせで決まっている。好きな色は白という情報から色も決めてあ
った。後の問題は条件に合致してしまう洋服が多々あるということだろう。
 小さくため息を漏らして私は後ろを振り返った。
「条件と合致する洋服は後何着あるの?」
「はい。残り234着になっております」
 次の服を用意して待っていた玲子が答えた。気の遠くなりそうな数字を聞いて私は再び
ため息をもらす。
―― 全部見ていたらお昼になりかねないわね。
 そんな事で彩樹との時間を減らすわけにはいかない。私はすでに持ち出された20着の中
から彩樹の気に入りそうなワンピースを手にした。
「これにします」
「よくお似合いですよ。それでは車の用意をさせます」
「お願い」
 答えて私は手早くパジャマを脱いでワンピースに着替ると姿見の前で回ってみた。
―― うん。清楚で十二分に彩樹の好みになってますね。
 納得しながらこの姿を見た彩樹の反応を想像して思わず笑みがこぼしてしまう。

 充実していて、楽しくて、幸せな生活。

 その時の私はずっとこの幸せな生活が続くと思っていた。

 そう、明日も明後日もずっとずっと……。

「いけない。脱いだパジャマはたたまなくてはね」
 思い出した私は脱いだパジャマを手にして丁寧にたたんでいく。たたみ終えた所で扉が
ノックされた。
―― 誰かしら?
 メイドの玲子かとも思ったがあの子の場合はノックよりも声で先に問い掛けてくる。と
なればお祖父様しかいないと思い、私は嬉々として扉を開け、凍り付いた。
―― どうして、ここに……。
 理由がわからなかった。庶民の幼稚園に通っている事とこの家で過ごしている事は私と
お祖父様、玲子と後は運転手しかいない。この人は私がこの人の選んだ幼稚園に通い、そ
の幼稚園の寮で過ごしていると思っているはずなのだ。
 そのはずなのにどうしてここにいるのか……。
「お、おとう……さま……」
 扉を開けた先にはお父様−法光院涼が立っていた。
「邸に帰るぞ」
 何の前置きもなくお父様はそう仰ると私の腕を掴んで踵を返す。連れ出されまいと慌て
てその場にしゃがみ、
「い、嫌です! お父様、お止め下さい! 私は、私はここにいたいの! お願いです。
邸には連れ戻さないで! お願いです!」
 渾身の力で抵抗しながら私は何度も何度もお願いした。
 けれども、
「黙れ! 父親に黙ってこんな事をする娘の言葉など聞く耳もたん!」
 抵抗も空しく私は家の外へと連れ出されてしまう。そこには洋服が詰まっているであろ
う袋を手にしたお祖父様が苦渋に満ちたお顔をして立っていた。
―― そうよ。お祖父様は誰よりも強く、誰よりも偉い。だから必ず助けてくれるはず。
 幼いながらに思いついた私は、
「お祖父様!」
 最後の望みを託してお祖父様を呼んだ。
 しかし。
「……すまぬ」
 お祖父様は救いの手を差し伸べてはくれず、苦渋に満ちたお顔を俯かせただけだった。
最後の望みはあっさり絶たれた。となれば後は自力で何とかするしかない。
―― 逃げ道ならいくらでもあるもの。
 黒服もメイドもいない。チャンスは今しかないと私はお父様の手に噛みつき、痛みで拘
束が緩んだ隙をついて逃げ出した。
―― あそこだ。
 塀に穿たれた大人が入れない穴。子供だけが通ることの出きる通称・子供道だ。あそこ
から逃げればお父様は追ってはこれない。そこに向かって私は全力で走った。
「くっ! 力ずくでも構わん! 掴まえろ!」
 背後で発せられた怒声。直後、首筋に辺りを強烈な衝撃が襲った。視界がぶれて意識が
混濁していく。
―― なに、が?
 状況を理解する暇もなく私は深い闇の中へと誘われていった。

「はっ?!」
 弾けるように半身を起こして周囲を見渡す。
 広さは8畳ちょっと。白い壁紙に白のカーテン、勉強机にタンス、小さなテーブル。邸
にある私の部屋ではなかった。着ている服もワンピースではなくパジャマだ。
「夢、だったのね」
 ホッと安堵の息を吐く。
―― そうよ。あんな事が起きるはずなんてないもの。
 夢だと安心したら急に彩樹に会いたくなった。
 ベットから出てタンスの中から服を取り出す。条件に合ったシャツとスカートに着替え
て私は部屋を飛び出し、
「え……」
 すぐに足を止めることとなった。
 視界一杯に入った窓の列。その向こうに見える大きな邸。ゆっくり左右を確認してみる
と二人のメイドがこちらを見ている。

 それらが全てを物語っていた。

 あれが悪夢ではなく、紛れもなく現実に起きた出来事であると。

 彩樹に会うことは出来ないのだと。

 幸せな生活は終わってしまったのだと。

 私は理解してしまった。

「どうかなされましたか?」
「いいえ。何でもありません」
 名も知らぬメイドからの問いかけにそう答えて私は部屋に戻った。背後で扉が閉まる。
それを合図にしてベットに飛び込み、
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!」
 私は出せる限りの大声で泣き叫んだ。
 彩樹と会えなくなった事が辛くて、悲しくて、苦しくて、泣く以外の事ができなかった。
楽しかった日々がまるでその日々とはお別れだと教えてくるように頭の中を駆け巡ってい
く。今の私に出来るのは……ただ、泣いて少しでも悲しさを忘れることだけだった。
 そして、泣いて泣いて泣き疲れた頃……。
「ふふっ。とても爽快な気分だわ」
 扉の開く音と共にその言葉が耳に届いた。泣くのを止めて顔を上げる。
「お姉様」
「あらあら、そんなに庶民とのお別れが辛かったの? 辛いわね、悲しいわね、苦しいわ
ね。……そして、無様で滑稽ね」
 近づいて来たお姉様がクスクスと笑う。
「お、姉様?」
「お父様に貴女の事を告げ口したのとあっちの部屋に似せた部屋に運び込んだのは藍よ」
 耳打ちされた言葉に私は息を呑み、握りしめた拳を横凪ぎに振う。怒りに任せた一撃は
易々と躱されてしまった。
「ざ〜んねん。ふふっ」
「っ! どうして! どうしてそんな事を!」
「どうして? 決まってるじゃない。妹が姉である藍を差し置いて庶民の生活を味わった。
それが許せなかっただけよ」
「それだけ? たったそれだけの理由だと?」
 言いながら私は奥歯をグッと噛みしめた。
―― そんなちっぽけな理由で……私と彩樹を……っ。
 力が入りすぎて体が震え出す。
「理由としては十分よ。ま、今後は藍よりも先にこそこそと楽しい事をしないことね。今
回の事は良い勉強だと思いなさいな」
 そう言うと満足したのかお姉様は踵を返す。と、扉を開けた所で何かを思いだしたらし
く再び振り返って私を見た。
「そうそう、貴女と親しくしていた庶民の事だけど」
 親しくと聞いて真っ先に彩樹の顔が頭に浮かぶ。
「親しいという理由で法光院に取り入ってきても面倒だし、そんな気も起こらないよう教
育してやることにしたわ」
「なん……ですって……」
 ベットから降りてお姉様の元へと歩み寄った私は怒りを込めて睨みつけた。
―― 彩樹に教育?
 いったい何をするつもりなのだろうか。
 肉体的、それとも精神的にか。どちらにしろお姉様が彩樹に苦痛を与えることは間違い
ないだろう。もし、そんな事になったら……。
―― 彩樹が私を想ってくれる可能性が……なくなってしまう。
 とてつもない絶望に視界が真っ暗になった。

 それから先の事は覚えていない。次に視界が戻ったときには病院のベットの上だった。
また夢ではないかと頬を捻ってみる。否定しようのない痛みが頬に感じた。

―― 夢ではないようね。けれど、どうしてこんな所に?
 疑問に思った私は玲子を呼びだしてここへ来るまでの経緯を聞き出した。
 私がお姉様を殺そうとしたこと。
 それを止めに入ったメイドによって気絶させられ病院に隔離されたこと。
 そして、彩樹への教育をお姉様がやめたことを……。
『お嬢様、室峰彩樹を連れてまいりました』
 外からの呼びかけに私は目を開けた。顔を外に向けると彩樹を担いだ玲子がこちらの返
答を待っている。肩の彩樹は気絶しているらしい。ピクリとも動かない。
 私はひとり分奥にずれてから、空けたスペースに彩樹を運び入れるよう玲子に指示した。
隣に運び込まれた彩樹が私の方へ倒れこんでくる。
 体を受け止めた私はそっと腫れあがっている顔に触れた。
「こんなに腫れてしまって……。傷の具合はどうなの?」
「見た目は派手ですが骨などに異常はないようです。ただ、私は医者ではありませんので
断言はできません」
「そう。なら『いつもの』円に連絡を。邸に来てほしいよう伝えて」
「はい」
 頷いた玲子はドアを閉めると同時に姿を消した。一息吐いてから受話器を取る。
『はい、お嬢様。いかがいたしましょうか』
「邸に向かってちょうだい」
『恵様はいかがいたしますか?』
「あの子なら自力で戻って来れます。それに……」
 私は彩樹に顔を向けた。
―― あの二人に会う可能性が高い場所へ彩樹を連れてはいけないもの。
 つまらない行動で3人の関係が修復出来る可能性をゼロにはしたくない。私としても彩
樹と2人がこのまま決別していいとは思ってはいなかった。
 あと他にも理由がひとつあった。
 私の芦原春賀と本郷晴香に対する怒りだ。
 頭では彩樹が望んで傷つけられたのだと理解している。理解しているが心では納得でき
ず、今も2人に対する怒りは心の奥底でくすぶっている。こんな状態であの2人を視界に
入れたら正気でいられる自信がなかった。
『お嬢様?』
「何でもありません。行き先に変更はありません。邸へ。出来る限り急ぎなさい」
『わかりました』
 通話が切れると微かな揺れと共に車が発進する。その揺れで体がずれたらしく肩に寄り
かかっていた彩樹の頭が膝の上に倒れてきた。
「ううっ……別にかま……いさ…………ひとり……ってな」
 小さな呻きと共に彩樹が途切れ途切れに言葉を漏らす。
「彩樹?」
 痛みで目を覚ましたのかと呼びかけてみたが返事はなかった。少し反応を見てみるも吐
息を規則正しく吐きつづけるのみ。
―― 寝言だったのね。
 理解した私は全身で彩樹を抱きしめると、
「夢にまで見てしまうなんて余程辛かったのね。でも、大丈夫よ。貴方を独りにはさせな
い。ずっと私が貴方の隣にいるのだから……大丈夫、大丈夫よ」
 少しでも苦しみが和らぐことを願いながら囁きかけた。

 何度も何度も車が邸に到着するまで。

「私が隣にいるから。私が独りになんてさせないから」

 と。


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