第五十六話「女湯にて」
 負けていた。ある1点を除いて全て負けていた。
 まず肌の白さと綺麗さ。シミも何もない。小さな傷跡すらなかった。
―― ウチはけっこう傷ある。
 次に艶やかな黒髪。黒いシルクのような上品さがあった。
―― ウチのははねっ毛でドライヤーかけてもなおらない。
 完璧なプロポーション。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいた。そんじ
ょそこいらのアイドルやモデルなんて月とすっぽん、ゴミとさえ思えるほどの容姿。
―― 勝ってるのは胸の大きさくらい。
 でも、他は完璧。そう、完璧という言葉が彼女には相応しい。
―― しかも超お金持ちのお嬢様ときたもんだ。
 見ているこっちが劣等感でいっぱいになりそうだった。
「何をしているの? ここまで来て怖じ気づいたのかしら」
 バスタオル一枚の棗さんが不敵な笑みを浮かべた。それはまるで敗者を見るようで……。
―― ムカツクじゃない。
 即座にそう思った。
「そんなはずないじゃん。どうやって貴女をおちょくってやろうか考えてただけ」
「ふっ。できるものならやってご覧なさい」
「やってやろうじゃない」
 睨み合ったままウチ達は揃って女湯へと入った。
『はぁ〜』
 中にいたお客さん達が揃ってウチ、ではなく棗さんを見て感嘆の息を吐いた。
「……何やら視線が痛いのだけれど」
「そりゃその容姿じゃ当たり前だよ。とりあえず体洗って湯船につかろ」
「いいでしょう。勝負は湯船に浸かりながらというわけね」
「そゆこと」
 木製の椅子に座ってスポンジにボディーソープを付ける。
―― あ〜ちゃんやハルの為にもバッチリ綺麗にしとかないと。
 泡だったスポンジで体の隅々まで擦った。
 と、
「恵の姿が見えないのだけれど」
 洗う手を休めて棗さんは周囲を見渡した。
「ここにいないんならあの子はあ〜ちゃんやハルと一緒に男湯ってことじゃん。少し考え
りゃわかるでしょうに」
 ウチがそう答えたとたん、完璧な美貌が醜く歪んだ。
「何ですって。……私でさえまだ一度もそのような事をしていないというのに」
 拳を握りしめながら棗さんは男湯の方を見た。
 しめしめと思う。
「ほっほ〜ん。婚約者の癖にあ〜ちゃんとお風呂に入ったことがない? うっわ。よくそ
んなんで婚約者と言えるよね。いや、ホント」
「くっ。ど、どうせ貴女も幼い頃に入ったというのでしょう。そんな事でこの法光院棗が
悔しがるとでも――」
「確か一緒に入ったのは……あ、1年前じゃん」
「どういうことかじっくり訊かせてもらいたいものね」
 殺意すら感じる声にウチは恐る恐る棗さんを見る。
―― ひぃ。
 神々しいまでの美貌はどこへやら。顔を般若にしてこっちを見ていた。
「は、話すってば。話すからその顔はやめて」
「玲子」
「はい」
 音もなく、まるで魔法の瞬間移動みたいにさっきのメイドさんが姿を現した。
「……玲子、お風呂場の中では服を脱ぎなさい。それが礼儀というものよ」
「申し訳御座いません。ですがこれは戦闘服故に脱ぐことはできないのでございます」
「そう。それなら仕方ありませんね。ではあれを」
「どうぞ」
 一礼したメイドさんは胸元から小さな四角いものを取り出した。
―― MDプレーヤー?
 よく目を凝らして見てみると確かにMDプレーヤーだった。有名な某メーカーの新作で
CMで見たことがある。
「何でそんなもの」
「黙りなさい」
 ウチの問いにそう答えると、棗さんはイヤホンを耳に付けて目を閉じた。それから10
数秒ほどしてイヤホンを外す。
「ありがとう。下がってちょうだい」
「かしこまりました。では」
 またしてもメイドさんは瞬間移動の如く消えてしまった。
『え、あれ?』
『な、何今の』
 見ていたお客さん達が驚き、ざわめきだす。
「あ、えっと、そうそう今の人は手品師なんだ。今のはその技のひとつ。見られてよかっ
たじゃん。ね?」
 妙な騒ぎになっては困るとお客さん達へ咄嗟に思いついた説明をする。
『あ、なるほど』
『いいものみたわ』
『ねぇ、ママ。もっかいみたい』
 説明を聞いたお客さん達は各々頷く。どうやらうまく納得してくれたらしい。ウチはホ
ッと胸をなで下ろした。
「ちょっと周り考えてよ」
「なぜ? そのような必要は微塵もないでしょう。そもそも貴女に命令されるいわれはあ
りません」
 ちっとも悪びれていない態度にウチはムッとなった。
―― こうなったらもっと悔しがらせてやらなくちゃ。
 それよりもまずは、
「さっきのはなに?」
 MDプレーヤーの事が気になって質問した。
「貴女には関係のないことです。そんな事よりも早く体を洗いましょう。さっきの話しを
じっくり訊かせてもらいたいですしね」
 そう言う棗さんの顔には先ほどあった殺意がまったくなくなっていた。
―― 精神をすぐ安定させるような癒し系音楽?
 それの類だろうけど……。
 みなぎる殺意を一瞬で癒してしまう音楽。どんなものか滅茶苦茶知りたかった。
 けど、
「貴女に聴かせる理由がありません。いえ、聴く権利がないの。もし聞きたいのであれば
命を差し出しなさい」
 お願いした答えはこうだった。仕方なく諦めて体を洗い、湯船に浸かる。
「はぁ〜。きんもちいい〜」
 全身に染み渡るお湯の気持ちよさに思わず声に出してしまう。
「ねえ、ウチの湯は格別でしょ?」
「入る価値はあるようね。けれど今は湯に関する事など話すつもりはありません。彩樹と
一緒にお風呂に、しかも1年前に入った……その事を話しなさい」
「いいよいいよ。話してあげる。1年前の話しなんだけど、あ〜ちゃんとハルが二人揃っ
て福引きで温泉旅行のペアチケット当てちゃってさ。かといってあと1人の宛なんてなか
ったから3人で行ったんだよ」
「余計な前置きは必要ありません」
「うっわ。忍耐ないね。ま、いっか。んで、ご飯の後にあ〜ちゃんもハルも温泉に入るっ
て言うからウチもって女湯に入ったのはいいんだけど、どうやら時間で男湯と女湯が入れ
替わる仕組みだったらしくて、入ったらすぽんぽんのあ〜ちゃんとごた〜いめ〜ん! い
んやぁあんときはウチもびっくらしたよ。なぁにもかも丸見えだったし」
「ま、丸見え……」
 話しを聞いた棗さんは顔を真っ赤にして俯く。
「その後はあ〜ちゃんとハルとで一緒に入ったんだ。あ〜ちゃんったら胸押しつけたら逃
げようとしてさぁ。可愛かったなぁ。あ、そういえば棗さんはあ〜ちゃんとキスしたこと
ってある?」
「も、もちろんです。私と彩樹は婚約者の間柄なのだから当然でしょう」
 その答えは少し意外だった。
―― へぇ。あのあ〜ちゃんとキスしたんだ。
 更に質問を続ける。
「何回? 何回あ〜ちゃんとキスしたの?」
「あ、貴女が知ることではありません」
「ふ〜ん。……その様子だと10回もしてないでしょ」
 返事はない。でも、ウチは聞き逃さなかった。
『うっ』
 という彼女の呻く声を。
「ちなみにウチは……えっと確か……あの時とあの時……あ、あれもそうか。うっわ。2
86回してんじゃん。し・か・も〜。ふっふ〜ん。ウチはあ〜ちゃんからされたこともあ
るもんね〜。どう、羨ましい? 羨ましくてしょうがないでしょ?」
 見せつけるようにしてウチは自らの唇を指差した。
「くぅ……」
 悔しさと嫉妬が入り交じった目で棗さんがウチを睨んでくる。
―― んっふふふふ。優越感優越感。ウチからあ〜ちゃんを奪ったんだから少しはイジメ
ないとね。
 けど、これで満足。後はちょっとした助言でもしてあげることにした。
「あ〜ちゃんがぜ〜ったいにキスしてくれる方法があるんだけど知りたい?」
「ふん。そのような事を聞かずともいずれ彩樹からさせてみせます」
「あ〜無理無理。絶対に無理。ウチとハルが保証する。あ〜ちゃんにそんな度胸も甲斐性
もないって」
 ため息混じりにウチは言った。
「あ〜ちゃんの事を知ってるならわかると思うけど?」
「……なら聞かせなさい」
「タダじゃダメ。聞きたいならこれから言う勝負に勝つこと、OK?」
 小さく棗さんは頷く。
「そんなら、いざ! 戦場へ!」
 ウチは先月駄々をこねて導入させたサウナ室を指差す。
「いいでしょう。勝ってその方法とやらを聞かせてもらいます」
「あ、ちょっと待って」
 立ち上がってサウナ室へと向かう棗さんを呼び止め、置いてあったバスタオルを取って
渡した。
「これをどうしろと?」
「うん? 別に付けなくてもいいけど付けておいた方がいいよ」
 棗さんは少し思案する様子を見せるも渋々身につけた。
「さて、んじゃ入りますか」
 内心では越後屋みたいな笑みを浮かべつつ、ウチはサウナ室の扉を開けて中に入った。
後に続いて棗さんも入ってくる。

 そして…………。

「なあっ!?」
「あ、彩樹!?」

 サウナ室でご対面するあ〜ちゃんと棗さん。
 そう、春の湯のサウナは男女混浴。本当は男女別だったけど駄々をこねて男女一緒にし
たのだ。
 あ〜ちゃんの隣にいたハルと目が合う。
『作戦成功』
 ウチとハルはお互いウインクしあった。
―― さぁて、あ〜ちゃんには棗さんが『女』だって事を意識してもらおっかな。

さぁてさて、どうなるか楽しみ楽しみ。


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