第五十五話「男湯にて」
 小さく揺れる湯。天井に上っていく白い湯気。耳に届く水音、はしゃぐ子供の声や世間
話をする大人達の声が耳に届く。
「くぁ〜〜〜。やっぱここの風呂は最高だな」
 足を伸ばしてもあまりある広さ。やや熱めの湯船。疲れた体を癒してくれる感じ。
―― いいな。やっぱ。
 3ヶ月ぶりの『春の湯』は3ヶ月前となんらかわりなく最高だった。
「努力してるし」
 隣で湯船に浸かっている春賀が天井を見上げながらそう呟く。
「何だ、やっぱ晴香と結婚して跡を継ぐのか?」
「うん。来週にね」
「………………………マテ。イマナンテイッタ」
「ん? 来週継ぐ」
「ということは何か? 来週結婚でもするってのか?」
「うん」
「うんって、お前……」
 かなり重大発言であるはずなのに冷めている。冷めすぎている。
―― これが結婚1週間前の男の顔か?
 と春賀を知らないヤツなら思うだろう。だが俺は知っている。
「〜♪ 〜♪」
 天井を見上げたまま春賀は鼻歌を歌い始めていた。
 そう、春賀の癖。
―― 最高にご機嫌の時は鼻歌、それも決まって同じものを歌うっていう癖をな。
 元から春賀は感情の表現に乏しかった。顔も声も微塵も嬉しさを感じさせない。それで
も内面では違う。
―― ある意味表情とは反比例してるんだよな。
 嬉しい時も、悲しいときも、怒った時も、本気であるときは決まって無表情になる。だ
から、いまの春賀は晴香との結婚を心から喜んでいるんだ。
「相変わらずだな。まあなんにせよ、おめでとうって言わなきゃな」
「サンキュ。そう言うあ〜やは3ヶ月間で変わったね」
「そうか?」
「うん。随分と我慢強くなった。前なら話しに聞いたような状況にされたら意地でも出て
いったはず」
「いや、出ていこうにも人質がいたから出られなかっただけでだな」
「嘘だね。あの子……確か棗ちゃんだっけ? 彼女が告白してきた時点でその可能性はゼ
ロになった。悪知恵のあるあ〜やが気付かないはずない」
「それは……」
 春賀の指摘に俺は反論できなかった。
―― そうだよ。何で俺は人質がいなくなったのに逃げなかったんだ。
 自問自答する。告白されて答えないまま逃げることはできなかったから。驚きのあまり
逃げることを忘れていたから。春賀の言うように変わり、慣れてしまったから。
 一通り考えてみるも何か違和感があった。
「彼女はあ〜やがかなり好きみたいだけど、あ〜やはどうなんだい?」
「わかんね」
「告白されてどれくらい経ってるの?」
「ん〜半月とちょっとって所か」
 そう答えると即座に頭から鈍い痛みがじわじわと襲ってきた。春賀が木製の桶で俺の頭
を叩きやがったのだ。
「何しやがる!」
「あ〜やサイテー。オレの愛してるあ〜やはそんな優柔不断じゃなかった。サイテー」
「だって仕方ねえだろ! いきなり買われて、無理難題押しつけられて、いきなり告白さ
れて、答えるって方が無理だっていうんだよ!」
「だったらハッキリと好きじゃないって言えばいい」
 また俺は反論できなかった。
―― そうだよ。何で俺は『お前なんざ好きじゃない』って言わなかった。
 本日2度目の自問自答。
 断ったら命の危険があると思ったからか?
 違う。
 そう言えば棗が泣くと思ったからか?
 多少有り。
―― それとも……。
 次の答えが頭に浮かぼうとした……が、
「二人とも姉上の話しばかりするでない。妾の話題も話せ。もしくは彩樹の幼い頃の話し
を聞いてみたいのう」
 恵の声によって浮かぼうとしていた答えは水泡となって消えていった。
「あ、ああ。すまんすまん。……っていうかちょっと待て。何でお前がここにいるんだよ」
 ちゃっかり俺の横に座っている恵を半眼で見据える。
「知れたこと。妾は彩樹の決縁者。いつ、いかなる時、いかなる場所であっても共にいる
権利があるのじゃ。故に妾はここにこうしておる。それに妾はまだ幼い故に大人と一緒で
なくてはならぬ……そうであろう?」
「女湯に棗がいるだろう、棗が」
「嫌じゃ。姉上よりも妾は彩樹といたい」
 そう言うや絶対に離さないという感じで腕に抱きついてきた。
「……はぁ」
「いいんじゃない。8歳ならギリギリ」
「だからってよ。もし……ロリなヤツがこの中にいたら視姦されるのは間違いないぞ」
 周りの客を見ながらそっと春賀に耳打ちする。
「安心していいよ。もしそんな野郎がいたら……半殺しにしたあとで脅すから」
「……客減るぞ」
「そんなことない。つい二月前にそういうヤツがいてさ。子供から老人までそいつを痛め
つけることに協力してくれた」
―― 傷害罪。暴行罪。
 ふとその言葉が頭によぎると共に、
―― そういや春賀と晴香も常識に欠けてる部分があったよな。
 俺の知り合いには非常識なヤツしかいないのかと改めて気付き、重いため息が漏れた。
「なればよかろう」
「うん。いいね」
 二人は互いに頷きあう。
「ほむ。そういえばここにはサウナはないのかのう。妾はあの体が焼けるような感じが好
きなのじゃが……」
「あるよ。ほら」
 春賀が左斜めの方向を指差す。
 そこには『さ・う・な♪』と書かれたプレートが付いた扉があった。
「3ヶ月前にはなかったぞ。あんな高価なもんは」
「先月導入したんだ。晴香が駄々をこねた結果」
 俺の疑問を読みとったのか、そう春賀は言った。
―― なるほどね。
 晴香の駄々は始まると止まらない。最高一月半というギネス級のものだ。
 とはいえ、ここ最近じゃ健康ランドなどでサウナは当たり前。客の維持、また増加を望
むのならあっても良いだろうって事になったんだろう。
「行こう、彩樹。ほれ!」
 立ち上がった恵が腕を引っ張ってくる。
「はいはいはいはい。わかったわかった」
「ならオレも。汗でキラリと輝くあ〜やの肉体……レアだね。萌えだね。デジカメ、いや
いやビデオカメラ用意しな――」
 問答無用で俺は春賀を桶でぶったたいた。
「む〜。何を遊んでおるんじゃ。妾は先に行く。すぐに来るのじゃぞ!」
 そう言うと恵はすぐさまサウナ室へと入ってしまった。
「可愛いもんだね。あ〜やがペドフィリアになってしまった理由も少しりか――」
 もう一度桶で頭を叩く。
「冗談。でもさ――」
 声が明るいものから真剣なものに変わった。
「棗ちゃんの事だけど、少しでも早くした方がいい。OKでもNOでも。OKなら尚更。
あんな可愛い子ならきっと求婚者だっていると思うし。その連中が積極的に行動してきた
ら……ライバルいっぱいであ〜やも大変だ」
 軽く俺の肩を叩き、春賀もサウナ室の中へと消えた。
―― 求婚者……棗に……。
「………け。どうせ法光院の力を手に入れたいヤツだろうさ」
 そんなヤツを棗が受け入れることは絶対にありえない。
―― もしそうでないヤツが棗の前に現れたら、もしそいつを棗が気に入ったら……どう
なるんだろうな。
 その問いの答えなんて返ってくるはずもなく。
「……………」
 何だか重い気持ちのまま俺はサウナ室に入った。

次は女湯でのお話らしい。あ、覗いたらリンチの後に脅すから。よろしく。


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