第三十九話「ミュウの元へ」
 心地よい浮遊感が消えると、視界に人々の争う姿が入ってきた。
「想像よりも酷い状況だな」
 煉は思わず顔をしかめた。
 酷い。視界の中どこを探しても争っていない者はいなかった。中には殴られすぎて気を
失った者が地面に倒れていたりもする。女・子供・老人など関係ない。こんな状態がいつ
までも続けば確実に人類は滅亡するだろう。
「こうしちゃいられないな。柳華、レグナットさっさとミュウの所へ行くぞ」
 振り返ると二人はいなかった。首を巡らせて探してみるがどこにもいない。
「はぐれたってやつか」
 舌打ちする煉。転移前にはきちんと柳華と手を繋いでいた。たぶん呪いの短縮という事
態はないと思いたい。
「とにかく奴らを捜さないとな。ったく、ここはどこだ?」
 もう一度周囲を見渡す。その景色には見覚えがあった。
「確かこの角を曲がると……やっぱりな」
 記憶に従って角を曲がると見慣れた塀と門があった。月影組の屋敷だ。なぜか屋敷の周
囲に争う人々はいない。
「やけに静かだな。まさか……」
 長ドスやチャカ(拳銃)を使った争いですでに中は死屍累々……。そうなるのを恐れて
ここには誰も近づかないのではないか。最悪の事態が頭によぎる。慌てて煉は中に入った。
庭には誰もいない。居間にも、台所にも、屋敷中探し周り、最後は離れだけとなった。
「……」
 ごくりと息を呑む。意を決して中に入った煉の視界に飛び込んできたものは、
『ずず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜』
 数十人が一斉に茶をすすり、
『はぁ〜〜〜〜〜心が和む』
 と緩んだ顔した月影組の面々だった。
「…………心配すんじゃなかった」
 頭を抱えて身を震わせる煉。
「なんや煉やないか。よう来たな。こっちに来て一緒に茶でも飲まないかい」
「んなことしてる場合ないのは外の状況でわかっているんじゃないですか?」
 怒りを必死に堪えながら煉は言う。
「それは私にもわかっとる。けどな、こうして和んどらんとすぐに心が苛立ってくるんや。
憎め、怒れいう声が頭に響いて、まるで催眠術でもかけられとるみたいにな」
 同意するように組員全員が頷いた。
「それはミュウの魔法だ」
「ミュウいうたら……そうや、煉と一緒いるいう妖精のことやったな」
「ああ。姉さん達や外があんな状況になったのはミュウが魔法で憎しみの心を増幅してい
から……くっ!」
 全てを言い終わる前に針に刺されたような頭痛に襲われた。
『憎め! 怒れ! 目の前のその女はお前を嫌ってる。嫌ってるヤツは殴れ、殺せ!』
 聞くだけで苛立ってくる。と、膝をついた煉の眼前に湯気のたつ湯飲みが差し出された。
「これを飲み。それから少し息を吸ってから吐くんや」
 言われた通りにする。
「……ほっ」
「どうや? 心が落ち着くやろ?」
「あ、ああ……声も聞こえなくなった。今のが姉さんが言った声?」
「たぶんそうやろな。で、どうするんや?」
「え?」
 その言葉の意図が分からず煉は聞き返した。
「煉の事やから止めに行くんやろ?」
「それならあっしらも手伝いやすぜ! なあ野郎ども!」
『オーーーーーッ!!』
「姉さん、お前達……すまない。だがミュウを止めたくても居場所がわからない」
 それが一番の問題だった。ミュウがこの街にいるとも限らないのだ。闇雲に探し回って
も時間の無駄になる。まずはミュウの居場所を知らなければならない。
「それならわかってるで。異変が起きる前にテレビで放送しとったんや」
「どこですか!」
「日本で有名な電波塔の天辺や」
 意地悪な問題を出す教師のように雫はニヤリと笑う。
「日本で有名な電波塔……あそこか!」
「そや」
 頷く雫。
『東京タワー!』
 全員が同時に叫んだ。

 煉が転移した直後のこと。転移を終えた柳華は懐かしい実家の前に立っていた。
「あんでこんな所に?」
 その答えは返ってこなかった。レグナットも煉もいなかったからだ。
「ちょっと二人ともどこ行ったのよ! まさかこの一大事に魔法の失敗ってやつ? やっ
てらんないわ! とにかく連絡取らないと……そうだ、携帯」
 柳華はポケットから携帯電話を取り出す。アンテナはきちんと3本立っていた。しかし、
ダイヤルしても携帯電話は己の役割を果たす事はなかった。通話ボタンを押しても音すら
発せられない。
「ったく、どいつもこいつも役立たずね!」
 携帯をポケットに戻して久しぶりの実家に入った。2年ぶりになるがどこも変わってい
ない。2年前と同じ場所にあった電話の受話器を取る。こっちも携帯と同じで無反応だっ
た。
「ダメか」
 受話器を置いて家の奥に向かう。家の中には誰もいなかった。今日は平日なので父は会
社だろう。母は買い物だろうか。
―― 二人とも無事でいてよね
 両親の無事を祈りながら外に出る。
「とにかく煉とレグナットを探さないといけないか。けど二人ともどこにいるんだか」
 見当もつかない。柳華は髪をポリポリと掻きながら悩んだ。
 と、その時、
「こんな所に突っ立ってんじゃねえよ」
 ぞっとするような声と共に痛いほど肩を掴まれ、抵抗するまえに地面に押し倒された。
「いたたた。あにすんのよ!」
「うるせえ! 俺はムシャクシャして仕方ねえんだ! 何人殴っても収まらねえんだよ! 
だったら殴って殴って殴り続けてやるぜ!」
 正気じゃない。これがレグナットの言っていたおかしくなった人間。そう思った時には
拳が振り上げられていた。
―― 殴られる!
 肩を地面に押さえつけられて避けることもできない。柳華は目を閉じてその時を待った。
「ぐあっ!」
 男の呻き声が聞こえて肩の束縛が解かれた。
「もう大丈夫だよ」
 そう言われて柳華は目を開けると、
「きゃっ!?」
 目の前に気絶した男の顔があって思わず悲鳴をあげてしまう。
「ちょっと気絶してもらっただけさ。死んではいない」
「そ、そう。ありがとう助かった……わ」
 立ち上がった柳華は命の恩人を見て言葉を失う。その恩人が進藤昴だったからだ。
「な、なんであんたがここに……」
「変になったのは警察も同じということです。いきなり牢を開けて襲ってきたから返り討
ちにしてあげました」
「脱獄じゃない!」
「そうだね。でも、僕は心配だったんだ……君の事が」
 昴が一歩前に出る。
「ち、近づかないでよ!」
「もう僕は君に何かをしようとは思っていない」
「どうだか。そう言って油断させておいてって可能性があるじゃない」
「……僕のしてきたことを考えれば当然ですね」
 大きく嘆息してから昴は暗雲たちこめる空を見上げた。
「実は入れられている牢屋の向かいにストーカーで捕まった男がいましてね。彼の話を聞
いている内に自分のしていたことの愚かさやおぞましさに気づきました」
「反面教師ってやつね」
 肩を竦めて顔をこちらに向ける。その顔には以前に感じた暗い陰のようなものはもうな
かった。憑き物がとれた、そんな言葉がしっくりくる。
「でも、僕が君を好きだったのは本当です。それも失恋で終わってしまいましたが」
「当たり前よ。あたしは煉一筋なんだから」
 堂々と胸を張って柳華は言った。
「彼はどこに? また殴られると思うけど一度謝りたい」
「ちょっとはぐれたみたいなのよ。ミュウを憎しみから助け出してこの状況を救わなきゃ
いけないってのに」
「……それは緑色の髪をした女性では?」
「そうだけど。あんたミュウの居場所知ってるの!?」
 昴は頷き、
「異変が起きる前に食堂のテレビで報道されているのを見ました」
「教えて。どこにいるの! 煉のことだからきっとそこに向かってる!」
「東京タワーです」
「東京タワーね。なら早く行かないと」
 居てもたってもいられず柳華は走り出すが、
「どうやってタワーまで行くんです? このような状態では電車などの交通機関も使えな
ければ、車も無理ですよ」
 その言葉で足を止めた。
「じゃあいったいどうすればいいのよ! こっちは一刻も早くミュウの所に行かなきゃい
けないってのにっ」
「簡単な事ですよ。陸がダメなら空を進めばいい」
 言いながら昴はお隣の家から自転車を2台持ち出し、マウンテンバイクの方を差し出し
てきた。
「さあ、行きましょう」
「行くって、どこによ?」
 柳華の問いに昴は言った。
「陸軍の基地です」

 憎しみの中心。東京タワー。
「何ということじゃ……」
 憎しみに支配されたミュウを目の当たりにしたレグナットは戦慄した。血のようにどす
黒いワンピース。綺麗な緑の髪は黒に染まり、瞳は真っ赤になっていた。
 自分の知っているミュウの面影は欠片もない。
「やってみるかのう」
 レグナットは目を閉じて集中すると、杖をミュウに向けて浄化の魔法を放った。しかし
杖から放出された白い光の奔流は黒い壁に阻まれて呆気なく霧散してしまう。
「やはり無理か」
 今のミュウの力は遙かに自分を凌駕していた。半ば予想していた事態だ。
「やはりあの二人がいなければ無理じゃのう」
「ならば早く連れてくるがよいぞ」
 声を聞いて顔を下に向ける。タワーの本体に己の体のよりも大きい鎌をもった少女がい
た。レグナットとは古い知人……死神のナウローラだった。
「ナウローラ。なぜ死神のお主がここにおるのじゃ」
「うむ。あの娘の処刑命令が下された」
 ミュウを見上げるナウローラ。その声には何の感情もなく淡々としたものだ。
「な、なんじゃと!?」
「このままでは人間界が滅ぶ。そうさせない為の処置だ。多を救うためには少の犠牲はや
むをえぬ。そういうことであろう」
 淡々とした声質を変えずにナウローラは言うと、おもむろに左手を差し出す。
「オーディア」
 嗚咽を漏らしながらオーディアが寝ていた。
「そこで泣いているのを見つけてな。お主の孫と気づいて保護しておいた」
「すまぬ。……それで執行時間はいつじゃ」
「10時間後だ。すまぬな。時間の延長しか我にはできなんだ」
「10時間……」
 それまでにミュウを元に戻さなければ彼女は死ぬ。レグナットはオーディアをナウロー
ラに任せて杖をミュウに向けた。
「何をするつもりだ」
「憎しみの心を少しでも弱めるのじゃ。心の全てが憎しみに支配されればあの二人が来て
もどうにもならぬ」
「それよりもその二人を捜して連れてくる方が手早くはないか?」
 ナウローラの言うことが正しい。水鏡の間へ転移して二人を捜せば数分で連れてこられ
るだろう。だが、それを考えると妙に胸がざわつくのだ。そうしてはならないと言ってい
るように。
「あの二人のことじゃからきっとここへ向かっておる。ならばワシの仕事は二人が来るま
でミュウの心をこれ以上憎しみに支配されぬようにするだけじゃ」
 己の勘を、あの二人を信じ、レグナットは浄化の魔法を放った。

 ミュウの処刑執行までの残り時間まで……あと10時間。


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