第二十一話「一難去らずにまた一難」
 昴の前から立ち去った柳華は校舎近くのベンチに座っていた。 「はぁ〜」
 ため息をもらしてから空を見上げる。今の心情を表すようにどんよりとした薄黒い雲が
空一面に広がっていた。
「なんだって煉じゃなくてあんな男に好かれないといけないのよ」
 近くに転がっていた空き缶を手に取ると、それを昴に見立てて地面に叩き付けてから何
度も踏んだ。すぐに固いスチール缶がぺちゃんこになった。
「あ〜〜腹立つ! あいつの所為でテストも白紙で出しちゃったし、もう厄日よ!」
「リュウカ〜」
 呼ばれて振り向くと、顔に衝撃がやってきて視界が真っ暗になった。こんなことをする
心当たりはひとりしかいない。
「どうしたのよ?」
 そう言って柳華は張り付いたミュウを引き剥がす。
「あのねあのね、ニーナちゃんがぶしつってところにいてくろいのぶわ〜ってやろうとし
てたのをレンがみつけたの。でねでね、おしおきしたんだけどトゲトゲボールしらないっ
て。だからリュウカがわるいやつにねらわれてるんじゃないかしんぱいだったの!」
「何だか早口でよくわからないけど、心配してくれてありがと」
 目を閉じて柳華はそっとミュウを頬に寄せた。
 ミュウの温もり。とても温かくて、ついさっきまであった怒りや嫌悪感が嘘のように消
え、代わりに安らぎに満たされていく。
「ミュウは暖かいね」
 しばらく柳華はミュウの温もりを感じていた。

「では」
 そう言って煉は教室の戸を閉めた。直後、中から黄色い悲鳴が聞こえてきた。
「……?」
 意味が理解できない煉は怪訝な顔をするもその場から立ち去った。そして下駄箱に来た
ところで携帯を取りだし、
『いまどこにいる?』
 柳華にメールを送った。
『大学校舎近くのベンチ』
 すぐに返答が送られてきた。
『テストは終わったのか?』
『今日は終わり。そうだ、お昼どこか食べにいかない?』
『却下。金がない』
 メールを打って煉はため息をもらした。
 柳華の護衛を決めたときに計算してみたのだ。孤児院への寄付は月に5万ほどしている。
それでもいつもなら家賃や電気ガス水道代を抜いて4,5万くらい残るのだが、柳華を守
るために休みを増やすと2万円残るかどうか。外食をする余裕なんてありはしない。
『だったらあたしが奢ってあげるって』
『大却下! 家に賞味期限ぎりぎりの食材がある。家で食うぞ』
『ちぇ。はいはい、わかりましたよ』
『正門で待っている』
 そう書いて送信ボタンを押し、
「外食もできんとは情けない」
 何とも寒い自らの財布事情に煉はもう一度ため息をもらした。

「あ〜あ、最近やなことばかりあったから外でご飯食べて、ぱ〜っとゲーセンとかで憂さ
晴らししようと思ったのにな〜」
 夕食の買い物で商店街に向かう道すがら口を尖らせて柳華は愚痴った。
「だったらひとりでいけばいいだろうが」
「ひとりじゃつまらないに決まってるでじゃない。そ、それにあたしは……」
 できるだけ煉と一緒にいたいからと心の中でそっと呟く。
「あん?」
「あんでもない。それにしてもあんたって外食できないほど貧乏なの?」
「あぐっ!」
 柳華の一言に煉が胸を押さえた。
「まさか通帳の残高百円単位じゃないわよね」
「なんで知っている!?」
「マジ?」
 こくりと煉は頷いた。
「ちなみにいくら?」
「……200円だ」
「あんでそんなに少ないのよ。あんた週6で働いてるんじゃ……」
 そこで柳華は言葉を止めた。
 週6でも時間はたったの5時間。ミュウに加えてレグナットやフェリスの食費は全て煉
が出している。これでは貯金なんて増えるどころか逆に減っていくだろう。
 そういえば無理に何度か外食に誘ったこともある。あれもその原因のひとつになってい
るに違いない。
「あたしもあの3人の食費出す」
 柳華が言うと、煉は首を横に振った。
「別にいい。俺は出費が少ないが……その、なんだ、女は色々と買う物があるだろう」
「んなの関係ないわよ。考えてみれば光熱費もあんたが払ってるじゃない。共同生活なの
に絶対おかしい! いい、絶対に払うからね!」
「わかったわかった。お前の好意に甘えさせてもらう」
 そう言って煉は苦笑を浮かべた。

 程なくして商店街が見えてくる。
「んで、今日の夕食ってなに?」
「カレーだ」
 柳華は眉根を寄せた。
「先週もカレーだったじゃない。違うのにしてよ」
「……だったらお前が作るか?」
 それを言われては何も言えない。柳華は頬を膨らませてそっぽを向いた。しかし、買い
物が始まったら柳華の機嫌は180度ころっと変わった。
「よう煉ちゃん。だれだいその子は? もしかしてこれかい?」
 八百屋の主人はにやにやしながら小指を立てた。煉は顔を赤くして、
「い、いやそんなのでは──」
「実はそうなんですよ」
 否定しようとする前に柳華は煉の腕に抱きついた。
「そうかいそうかい。やっと煉ちゃんにも春が来たのかい。おい母ちゃん、来てみろよ!
煉ちゃんに彼女ができたってよ!」
「い、いやオヤジさん。これは……」
「本当なのかい?」
 店の奥から恰幅の良い女性が出てくる。八百屋のおかみさんだ。
「あらまあ! こんな可愛いお嬢さんを捕まえるなんて。さすがは煉ちゃんね」
「さすがはレン〜♪」
「だから─!」
「あたしたちラブラブなんですよ♪」
「ラブラブ〜♪」
 煉の声を遮って柳華が言うと、肩にいるミュウが言葉を真似した。
「よっしゃ! 今日は煉ちゃんの彼女出来た記念だ。どの品も5割引きにしてやる!」
「おっちゃん太っ腹!」
「ふとっぱら〜!」
「あったりまえよ!」
 主人の豪快な笑い声が商店街に響き渡った。

 その後の買い物でも同じようなことをしてまわり、商店街を出た頃には両手に多くの食
材を抱えていた。安く買えて、おまけに煉の恋人として見てもらえて柳華はご満悦だった。
「やったね。大漁大漁」
「何が大漁だ! 何がラブラブだ! 優しさを手玉にとった詐欺だぞ!」
「あによ、あんたの為を思ってしてやったのに」
「だからって嘘を言うのはやめろ!」
「嘘じゃない!」
 言ってから柳華は慌てて口を押さえた。ちらりと煉を見る。
「……」
 驚きからか煉は目を丸くしていた。
「あ、いや……その……」
 顔を俯かせて頬を朱色に染める柳華。
―― 何してんのよ。告白するチャンスじゃない!
 心の中で叫ぶ。
『嘘じゃない。あたしは煉が好きなの』
 そう伝えればいいのだ。高まる鼓動を押さえつつ、頭の中で何度も練習してから柳華は
顔を上げた。
「あたしはあんたが……あんたが……」
「柳……華……?」
「あたしはあんたが好きなの!」
 ついに勇気を振り絞って柳華は胸に秘めていた想いを口にした。
 しかし、
「きさまーーーーーーーーーっ!!!!」
 その言葉は煉の耳に届くよりも前にやってきた男の叫び声にかきけされた。
「な、なんだ!?」
 駆け寄ってきた男はいきなり煉に殴りかかった。素早いパンチを煉はなんとか躱す。
「…………」
 二度目の告白失敗に柳華は酸欠の金魚のように口をぱくつかせた。
―― 失敗。また失敗しちゃった
 胸の奥底から真っ赤な激情が沸き上がってくる。
「くっ」
 拳を握りしめて失敗の原因を睨み付けた。
「許せん許せん許せーーーん!」
 まだ男は煉に拳を繰り出していた。柳華は持っていた袋を地面に置く。
「許せないのは……」
 それから少し後ろに下がり、
「あたしの方だぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
 助走をつけて男の後頭部に跳び蹴りをみまってから、
「せっかく、せっかく勇気を振り絞ったのに〜〜〜〜〜ぃ!」
 何度も背中を踏みつけた。踏みつけられた男は踏まれた回数だけ潰されたカエルのよう
な悲鳴を上げた。
「じゃまものじゃまもの!」
 ミュウも頬を膨らませて男の頭を何度も踏んだ。
「いきなり何の用よ! お兄ちゃん!」
「貴女が心配で来たのよ」
 柳華は動きを止めた。ゆっくりと声のした方に顔を向ける。
「……お姉……ちゃん」

 そこには2年ぶりに見る……姉の姿があった。


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