第二十話「嫌がらせの理由は」
 部室棟2階の右端に演劇部の部室はある。テスト中だけあって周囲に人の姿はなかった。
「チャンスです」
 そう言ってニーナはノブをひねった。部員が鍵をかけ忘れたのかすんなりと開いてしま
う。薄暗い部室を見回す。すぐにそれは見つかった。
 東雲柳華。そう書かれたステッカーが貼ってあるロッカー。
「まさかこんなに早く仕返しのチャンスがくるなんて…・ラッキーかも」
 クスッと笑うと、他人のロッカーから拝借してきた墨汁満載の容器を開封する。これを
ぶちまければ気分は雲一つない青空のように清々しくなるに違いない。
「うふっふっふっふ」
 ロッカーを開けようとして、
「ほほ〜う。楽しそうだな」
 聞き慣れた、しかし寒気が走るほどの底冷えした声にニーナは硬直した。
「何をしようとしていたか俺に教えてくれないか?」
 ニーナの肩に手が置かれる。
「……ひいぃ」
 ゆっくり振り返ったニーナは、静かな殺気を放つ金剛力士像ばりの煉を見て腰を抜かし
てしまう。その拍子に墨汁の容器が手からすり抜けて地面に転がった。
「お、お兄ちゃん……」
「まさかお前が犯人だったとはな」
「こ、これは……これは……その……」
「俺は言ったよな。弱い者イジメと嫌がらせだけはするなと。それを破ったんだ、覚悟は
できているな?」
 怖くてニーナは動けない。

 数秒後、演劇部の部室に絹を引き裂いたような悲鳴が轟いた。

 聖城大学の中央にある樹齢1000年の楠(くすのき)。
 お昼時は弁当を食べるカップルや昼寝をしに来る生徒で賑わう場所だった。今日も何人
かの生徒が暇を潰そうと楠の近くまでやってきて、誰もが目を丸くした。

 金髪の女の子が足を縛られて逆さ吊りにされていたのである。

「うえ〜ん! お兄ちゃん許して〜」
 両手をじたばたさせながら、ニーナは必死に懇願した。
「却下!」
 きっぱりと即答する煉。
 治療後、煉は心配する柳華を講義室に押し込んだあと、何か仕掛けてありそうな確率が
一番高い演劇の部室へ来てみたらニーナが墨汁を手にしていたのである。
 孤児院では姉として年下の子供達の世話をしているニーナが他人に嫌がらせをして喜ぶ
ような娘だったと知って怒りを通り越して悲しかった。
―― 悪事にはお仕置きだ。
 剣道サークルから借りてきた竹刀を握りしめる。
「みゅふっふっふっふ」
 肩に座っているミュウもやる気満々で笑っていた。
「さぁて、覚悟はいいな?」
「ま、まさかそれで……うえ〜ん! 誰か助けて〜!」
 今度は傍観している学生達に助けを求めるニーナ。だが煉のひと睨みで蜘蛛の子を散ら
すように生徒達は逃げていく。
「さぁ……やれ、ミュウ!」
「らジャー!」
 敬礼したミュウがニーナの服の中に飛び込んだ。直後、
「あっははははははははっは! や、く、くすぐったい。あ、そこは……あはははは!」
 身をくねらせてニーナが悶えた。ミュウによってくすぐられているのだ。
 顔も知らない、殴ってもバチのあたらなそうな男であれば竹刀で思う存分殴っていただ
ろうが、相手がニーナではさすがにそれはできない。
 制服にできた小さな膨らみがニーナの全身を徘徊する。ちなみにスカートはめくれない
よう縛ってあるので問題ない。腕を組んだ格好のまま煉はニーナの笑い悶える様を煉はじ
っと見続けた。
「も、もうだめ〜。わ、わ、わ、笑い死んじゃう〜〜〜ぅ」
「許してほしいか」
 目元に涙を浮かべながらニーナは何度も首を縦に振った。
「なら柳華に謝れ。そして二度と嫌がらせなんてしないと誓えば許してやる」
「ち、ち、誓う。あはははは! ち、ちかうか、から、ゆるして〜」
「よし。もういいぞ、ミュウ」
「ぷふぁ〜」
 襟元からミュウが顔を出した。そのまま出てくるとガッツポーズをする。
「あくはぜったいにほろぶの〜♪」
「うむ」
「ふえ〜。お兄ちゃ〜ん、早く降ろして」
「少し待ってろ」
 煉は足を縛っていたロープを解いてやった。解放されたニーナはすぐさま息を荒げたま
ま寝っ転がってしまう。
「これに懲りてもう二度と金輪際しないことだ」
「うん。もうしない」
「それにしても釘ボールは痛かったぞ。見ろ、包帯で頭がグルグル巻きだ」
「?」
 半身を起こしたニーナが首を傾げた。
「釘ボールだ。頭にぶつけられて血が止まらなかったんだぞ」
「あ、そういえばどうしてお兄ちゃん頭に包帯なんて巻いてるの?」
「……む?」
「みゅ?」
 煉とミュウは顔を見合わせた。少し考えてからもう一度訊いてみる。
「釘ボールはお前じゃないのか?」
「ワタシは今朝お兄ちゃんとあの女が楽しそうに歩いていたのに腹が立って、近くの人に
演劇部に所属してるって訊いたから部室のロッカーに腹いせでも、と」
「本当だな?」
「ホントだよ。こ、これが最初で最後なんだから!」
「む〜」
 両腕を組んで煉は唸った。
 ニーナは自分に嘘を言うような子ではない。となると本当に釘ボールや小麦粉などの嫌
がらせとは別ということになる。つまり、犯人は別にいるのだ。
「いったい誰が……」
「みゅ〜。しんぱいだからリュウカのところいってくる〜」
 そう言うとミュウは講義室のある校舎へ飛んでいってしまった。
「ミュウが一緒にいればとりあえずは大丈夫か。ならばこっちは……」
 煉は立ち上がろうとしていたニーナを見た。
「ふえ?」
「お前を高校に連れて行く。サボりじゃ授業料が無駄になるからな」
 煉はニーナの手を取ると、同じキャンパス内にある聖城高校に向かって歩き出した。

 その頃、柳華は講義室でテストを受けていた。課目は一番嫌いな英語のテストだ。
―― 煉のヤツ本当に傷は大丈夫なのかな
 しかし、煉の事が心配でテストの回答欄はひとつもうまっていない。ボーっと窓の外を
見る。円はすぐさまやってきて煉を治療した。出血量の割に傷は浅かったらしく、消毒の
後に化膿止めをぬり、ガーゼで傷を保護した上から包帯を巻いて治療は終わった。
 でも、本当に傷が浅かったのか心配でしかたがなかった。けっこう出血していた。
―― 急に貧血で倒れてたりしないでしょうね。こうしている間にも嫌がらせの身代わりに
なってはいないだろうか?
我が身を盾にして守ってくれることは嬉しい。でも大切な人が傷つく事は一番あってほし
くないことだった。
「はぁ〜」
 聞いた者が沈鬱しそうなため息がもらす。
 と、
「ん?」
 隣から折り畳まれた紙が押し出された。目線だけで隣の人物を見る。眼鏡をかけた男子
学生が微笑を浮かべていた。監督官に気を付けながら紙を開く。
 そこには、
『惜しかったね。当たり所がよければあの男を始末出来るところだったのに』
 と書かれていた。
 それを見た柳華は隣の男子学生を睨み付けた。彼はクスリと笑う。
 もしテスト中でなければ今すぐ席を立って、襟首を掴み上げてから思い切り顔面を殴っ
てやりたかった。
―― この男が。この男が煉をっ!
手にしていた紙を握りつぶす。
―― 許せない。絶対に許さない!

 それからテストが終了するまで柳華は怒りが爆発するのを必死に押さえ込んだ。

「ちょっとついてきなさい」
 テスト終了後、白紙の答案用紙を提出してから柳華は男子学生に声をかけた。彼は喜ん
で後についてきた。
 校舎を出て人気のないキャンパスの隅で足を止めて振り返る。
「こんな人気のない所に連れてくるなんて、もしかして告白ですか?」
「誰があんたのような人でなしのクズを好きになるっていうのよ! 数々の嫌がらせや釘
だらけのボールの事に決まってるじゃない! あれはあんたの仕業ね」
「はい。小麦粉などは早く縁を切りなさいという警告でした。あのような見るからに粗野
な男は貴女には似合いません。僕は貴女の為を思ってしたんです」
「誰も頼んでないわよ! もし失明とか、最悪死んでたらどうするつもりだったの!」
 飄々と答える様子に堪忍袋の緒が切れた柳華は彼の襟首を掴み上げた。
「いいではないですか。あんな男死んでしまえばいいんです。僕には聞こえる。貴女が僕
に助けを求めている声が。あの男から解放し、安らぎを与えてほしいと。そう、貴女を幸
せにできるのはこの進藤昴だけなのだから」
 臆せずに言う。目はどこか恍惚としていた。自分の妄想と現実の区別がついていない。
吐き気を感じるくらい自分勝手な男だった。
「そんな事考えてるわけないじゃない! あたしは煉が好きなんだから!」
 柳華は叫び、昴を突き飛ばした。尻餅をついた彼は信じられないといった表情で柳華を
見上げる。
「ば、ばかな。そんなはずはない。君は僕が好きなんだ。そうだろ? そうでなければな
らないんだ!」
 譫言のように呟いていた昴がいきなり飛びかかってきた。
「ふさけんじゃないわよ!」
 柳華は右の拳を引く。そして手加減のない拳を昴の顔面に叩き込んだ。呻きに近い悲鳴
を上げて昴は地面に転がる。
「妄想なら自分の中だけでしてりゃいいのよ!いい!今度あたしや煉に何かしたら一発じ
ゃ済まないから、そう思いなさいよ!」
 立ち上がった柳華はそう言い捨てて踵を返す。こんな男とは一秒たりとも一緒にいたく
なかった。

 ひとりになった昴は身を起こして小さくなっていく柳華を見ながら呟く。
「諦めるもんか。君は……僕のものだ」
 そう呟く彼の目は暗く濁っていた。


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