第二話「空から降ってきた女の子」

―― どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
 頭の中を『どうしよう』が埋め尽くす。全身から汗が噴き出し、心臓は早鐘のように鼓
動を早めていた。困惑、不安、焦燥によってうまく考えもまとまらない。
「安心めされよ。拙者の目が見間違いを起こしておらねばきっと無事でござろう」
 そんな僕の肩に手を置いた小次郎さんの声は妙に落ち着いていた。
「あら、小次郎ちゃんも見えたの?」
「羅雪殿もでござるか。なれば用心せねばなりませぬな」
 そう言うや小次郎さんが刀を鞘から抜き放った。車すら容易く両断する刀身が太陽の光
を浴びてぎらりと光る。
「ちょ、ちょっと小次郎さん。いきなり刀なんか抜いてどうしたんですか」
 慌てて問い掛けるも返答はない。七荻荘―女の子が落ちた場所―を睨み付けたまま動か
なかった。
―― 武蔵さんの粛正以外では滅多に抜かないのに。しかも凄い警戒してる
 一体何が彼女にそうさせるのか。とても気になったが、ふと脳裏に七荻荘へ落下したの
が女の子だった事実が蘇った。
「……女の子? って、そうだよ! 落ちてきた子が無事かどうか確かめないと!」
「あ、大家殿! 待つでござる!」
 小次郎さんが止めようとする声を聞き流して僕は急いで玄関から七荻荘の中へ入った。
窓が開いていない為か未だに廊下は粉塵や砂塵で覆い尽くされ、ほんの少し先すら見えな
い状況だった。
―― あの煙の中だよな
 そう思いながら僕が足を廊下を踏みしめた瞬間、一陣の突風が吹き荒れた。あまりの強
風に立っていられず尻餅をついてしまう。
「大家殿! 無事でござるか!」
「京司さん!」
 中へ入ってきた小次郎さんと羅雪が尻餅をついた僕を見て駆け寄ってきた。
「うん。急に凄い風が吹いてさ。立ってられなくて尻餅ついただけだから平気平気」
 言いながら顔を上げてみると、さっきまで見ることのできなかった場所に長い黒髪の少
女が浮かんでいた。気を失っているのか寝ている格好をしている。
「天使の防御結界みたいね」
 羅雪が何を言っているのかわからなかったが、少女の全身を包み込んでいる光の膜がそ
うなのだろうと推測した。
「天使の防御結界っていうことは彼女は天使ってこと?」
「多少違うね」
 僕の問い掛けに対する答えは廊下の奥から発せられた。声の主は10歳ちょっとの白髪の
少年。名前はアインシュタイン。彼もまた本物であり、この七荻荘に暮らしている住人の
ひとりだった。
「多少違うってどういう意味だい? だって天使の防御結界に護られているんだろ? っ
てことは天使じゃないの?」
「天使ではない証拠はこいつだ」
 そう言いながらアインくんはしゃがみ込むと宙に浮く少女の背中を指差した。
「黒い翼」
 幻覚でも見間違いでもない。少女の背中からは漆黒の翼が生えていた。けど、どういう
訳か左片翼しかない。
「何で片方だけなんだろ?」
「問題はそこではござらぬ。黒の翼を持つ存在がいかなものか大家殿はご存知かな?」
 知らないので僕は首を横に振った。
「この娘は堕天使だ」
「堕天使って、よく漫画とか小説とかで出てくる、あの?」
「そういった本は読まないが恐らくそれだ。とにかく厄介な存在だね」
「目を覚ます前に殺すのが得策でござるが、この防御結界は強固すぎて拙者の力では歯が
立たぬでしょうな。羅雪殿の冷気でどうにかなりませぬか?」
「私なんかの冷気じゃ無理よ」
「残念ながら科学の力をもってしても無理だね」
 3人は難しい顔を見合わせる。
「ちょ、ちょっと3人とも殺すとか物騒な事を言わないでくれよ」
「物騒? 物騒なのはこの堕天使の存在そのものでござる。今は眠っているので安心でご
ざるが、ひとたび目を覚ませばこの街……いえ、この世界に混乱と破壊をもたらす可能性
が高いのですぞ」
「そんなに怖い子には思えないけど……」
 言いながら僕は少女の寝顔を見た。あどけない寝顔には笑みが零れはすれど怖いとは思
えなかった。
「外見になどダマされちゃダメよ! いい、京司さん。堕天使というのは同族殺しや秘宝
を無断使用して多くの命を奪ったり、罪もない霊達を消滅させては楽しむようなヤツばか
りなの! 最低なの! 最悪なの!」
「防御結界が消失したら即座に処分するのが得策さ」
「……ふむ」
 僕は顎に手を当てつつ、顔を3人から少女の方へと向けた。
―― この子が羅雪の言うような極悪非道な子だと思うかい?
 自らに問いかけ、即座に結論を出した。
 否。
 理由はない。単なる直感。あえて理由を言うのなら寝顔が可愛い。過去、これまで寝顔
の可愛い人物に悪い人はいなかった。
 というわけで、
「殺すのは却下。この子は僕が保護します」
 結論を出した僕は3人から女の子を護るように両腕を広げた。
「大家殿、正気でござるか?!」
「もちろん正気だよ。だからこの考えを変えるつもりはないからね」
 絶対に意志は変わらないと掴みかかってきた小次郎さんを真っ向から見据える。彼女は
しばらく信じられないといった表情をさせていたが、不意にため息をもらすと苦笑を漏ら
した。
「……わかりもうした。大家殿は頑固でござるからな」
「ホントホント」
「ごめんね」
「良いでござるよ。大家殿のそういう優しさを拙者は気に入ったのですから。万が一の場
合は拙者が全力でお護りいたそう。それと、念には念を入れて霊務省にも連絡いたします
からな」
 そう言うと小次郎さんは刀を鞘に収めた。今の所は女の子に対して殺意はないという彼
女なりの意志表示なんだと思う。
 何はともあれ一先ず僕はホッとした。
「あ、ワタシもワタシも! 絶対に京司さんはワタシが護りますからね」
「うん。頼むよ。ほら、僕って喧嘩からっきし駄目だし」
 自慢じゃないけど今まで喧嘩に勝った事など一度もなかった。喧嘩した回数が少ないこ
ともあるが、争い事が嫌いな僕はじっと殴られて我慢する方に徹している。
―― 殴ると自分も相手も痛いしね。
 それに少し我慢すれば丸く収まるのだから。
「ん? どうやら防御結界が解除されるようだな」
 アイン君の言葉に顔を向けると、女の子を覆っていた光の膜が弾けた。弾けた光は粒子
となって床に降り注ぎ、そのまま溶けるようにして消えてしまった。
 同時に女の子の体が傾く。
「あ!」
 慌てて僕は女の子を抱きとめた。
「ふう。危ない危ない。さてと、どこへ運びましょうか? ん〜、小次郎さんの――」
「申し訳ござらぬ。大家殿の願いといえどその娘を拙者の部屋にはいれとうござらぬ」
「じゃ、じゃあ、アイ――」
「寝言は寝て言うものだ」
 とりつく島もなかった。できれば同じ女性の小次郎さんの部屋か、もしくは高級ベット
のあるアイン君の部屋に寝かせたかったのだけど。
「となると僕の部屋かな」
「はいは〜い! ワタシの部屋なら歓迎よ」
「……本気で言ってる?」
 妙にはしゃいでいる羅雪を僕は半眼で睨み付けた。
 羅雪の部屋は常にマイナスの低温度で保たれている。普通の人が生活しようものなら数
分で凍死してしまう。そんな所へこの子を運ぶ事なんてできるはずもない。
「も、もちろん冗談に決まってるじゃないの。もう、京司さんったら怖い顔しないで。お
ほほほほほ」
「だったらいいけど。あ、そろそろ羅雪は部屋に戻った方が良くない?」
「そ、そうですね。ではでは一度部屋に戻っちゃいます。で、ではでは〜」
 笑いながら羅雪は逃げるようにして奥の部屋へと消えてしまった。
―― というか、あれは逃げたね。
 間違いなく。
「まったく、怒られるのがわかってるなら言わなきゃいいのに。……さて、行きましょう」
 一度女の子を抱きなおしてから僕は自室に入った。広さは8畳で押し入れ有り。広くも
なく狭くもなくちょうど良い間取りだ。
「あ、小次郎さん。押入れから布団を出してもらえますか?」
「承知した。適当に敷いてよろしいでござるか?」
 その問いに頷くと、小次郎さんは手早く布団を取り出して敷いてくれた。起こさないよ
う布団の上に女の子をそっと寝かせる。
「で、貴様はその堕天使をどうするつもりなんだ」
「ん〜。とりあえず目を覚ましたら挨拶して、自己紹介して、お腹空いてたらご飯を食べ
させて、後はお風呂かな?」
「どこまでも軽いオツムだな。忘れたのか? この女は堕天使だ。目を覚ましたとたん襲
いかかってくる可能性が高い。この女の拘束を提案する」
 そう言うやアイン君はどこに隠し持っていたのか太い鎖と南京錠を放り投げてきた。畳
に転がった鎖がじゃらりと音を立てる。
 と、
「ん〜?」
 女の子が瞼をこすりながら身を起こした。弾かれたように小次郎さんが刀に手を添え、
アイン君が妙な機械を取り出す。
 対して僕は一度深呼吸をしてから女の子の視界に割って入った。
「おはようございます」
 自分で浮かべられる最高の笑顔と優しい声色で挨拶。
「っ?!」
 女の子が息を飲んで驚く。確かに目を覚まして目の前に見知らぬ異性がいたら驚くのも
無理はないだろう。僕だって目を覚まして異性でなくとも誰かいたら驚く。
―― ここは怖がらせないように。
 笑顔を絶やさずに説明に入ろうかと口を開きかけた……そのときだった。
「誰だテメェはっ!」
 怒声と共に左頬に強烈な衝撃。視界が暗くなってから間をおかずして後頭部に衝撃。2度
の衝撃を受けた僕は考える間もなくそのまま意識を失ってしまった。

←前へ  目次へ