第一話「ここはゴーストシティ」

 空には一寸の白もない。まるで天空に浮かぶ大海原。太陽はさしずめ海底の巨大宝石とい
ったところだろうか。こういう天気の良い日は洗濯したくなってしまう性分なのだが、幸
か不幸か洗濯物はない。
 代わりに住人全員の布団を外で干すことにした。後で布団叩きで思う存分叩くとしよう。
「それまでは地面の掃除かな」
 床一面に広がるピンクの花びら。春の風物詩である桜吹雪の慣れの果てだ。見ている分
には綺麗だが後始末が大変なのが玉に傷。
「一度綺麗にしても……」
 僕は庭の桜に目を向けた。5月も近いというのに我が家の桜は未だに満開だった。間違い
なく今日掃除しても明日には同じ状態になってしまう。
 そうはわかっていても掃除せずにはいられない。これはもう性分だった。玄関で箒とち
りとりを入手して花びらを集めていく。
「七荻さん、おはようございます」
 挨拶に顔を上げてみるとお向かいの若奥様が柔和な笑みを浮かべて立っていた。確かお
年は20代半ば。料理が得意でよく差し入れなんかをしてくれる優しい人だ。
 ちなみに奥様が言った七荻とは自分のこと。七荻京司(ななおぎ きょうじ)が僕の名前だ。
背後にある下宿『七荻荘』を営んでいる。
「おはようございます」
「お掃除大変ですね。でも、まだまだ増えそうですから後でもよろしいのでは?」
「ええ。確かにそうなんですけど職業病というか、見たら掃除せずにはいられなくて。そ
ちらはご夫婦でおでかけですか?」
 言いながら僕は奥様の隣にいる旦那さんへ顔を向けた。確か年は20代の後半。銀行で働
く銀行員さんだ。目線が合うと少し申し訳なさそうな顔をして会釈してくる。
「はい。春物のお洋服を買いにデパートへ。これもデートなのかしら。ふふ」
「楽しんで来てください」
「はい。それでは」
 奥様は会釈をしてから旦那さんの腕を取って繁華街の方へと歩き出す。道の桜を掃くつ
いでに僕は二人の後ろ姿を見送る。
―― 幸せそうだ。
 満面の笑みからもハッキリと奥様が幸せであることはわかった。このままずっとその幸
せな表情であってほしいと思う。
 けれど……。
 自然と僕の目は旦那さんの左手首を見てしまう。赤い紐の通った鈴。一見和風なアクセ
サリーとも思えるそれは『死者の証』だった。
 そう、奥様の旦那さんは6年も前に亡くなっている。本来なら見ることも、ましてや触
れることなんてできないはずの存在なのだ。
 ならば何故ありえない存在が実在しているのか。
 全ては4年前の7月7日に発生した現在では『百鬼夜行』と呼ばれるようになった幽霊
実体化現象が原因だった。
 発生原因は解明されているらしいが機密の二文字で世間に公表はされていない。ただ、
いずれは実体化した霊はいなくなるだろうとだけ宣言されている。
 だから、旦那さんがいつかまた奥様の前から姿を消す可能性が高いのだ。そうなれば奥様
は笑顔を永遠に失ってしまうだろう。
「できればあの二人にはずっと幸せでいてもらいたいな」
「ホントホント。ずっとこのままでいてほしいわ」
 声に驚いて振り返ると、全身から白い煙を発する女性が目に入った。『七荻荘』の住人で
羅雪という。
 彼女もまたゴーストだ。けど、人じゃない。世間では雪女とか雪妖とか呼ばれる存在だ
った。何の因果か5年前に雪山登山中に偶然封印を解いてしまった事により取り憑かれて
しまっているのだ。ちなみに封印は名のある霊能力者が施したもので、数百年も昔に悪さ
をしていたのが原因とのこと。今は『悪さをするよりも楽しいの見つけたの』という理由
で悪さをするつもりはないらしい。
 そんなわけで羅雪から発せられてる煙は彼女の体温の低さ故なのである。
 簡単に言えば人型ドライアイス。
「驚かさないでくれよ」
「ふふっ。ごめんなさい。ぼ〜っとしてるからつい驚かせたくなって」
「まったく。外へ出る為の用意してきたの?」
 気になって僕は羅雪に問いかけた。
 雪妖は常に体温をマイナスに保たなくちゃいけない。万が一にもマイナスでなくなれば
どんな結末を迎えるかは考えるまでもないと思う。
「はい。ドライアイスを多量に摂取してきたので30分は平気ですよ。ほらほら、時間も
限られていることですし、ささっとお掃除しちゃいましょ」
 そう言いながら玄関から持ってきたらしい箒で羅雪は手際よく花びらを集めていく。
「そうだね。二人でなら早く終わるだろうし。やりますか」
 服の袖をまくって箒を掴みなおす。こうなれば一枚残らず集めてやろうと思った。
 そのときだった。
「この助平男がぁ――――――ーっ!!!」
 家の方から怒声とガラスの割れるけたたましい音が発せられる。間を置かずして集めた
花びらの上に大きなモノが着地した。
 集めた花びらが着地の勢いを受けて宙を舞う。
 さて、この落下してきた大きなモノはというと……。
「武蔵さん、またですか?」
 痛くなった頭を押さえながら僕は住人・宮本武蔵さんを見た。
「今日のは不可抗力というものじゃ! ぬ、いかん!」
 武蔵さんは後ろを振り返ったかと思うと、素早い身のこなしで僕の背に隠れてしまった。
いったい何故と思う間もなく理解する。
「む〜〜〜さ〜〜〜しぃ〜〜〜〜〜!!!」
 長大な刀を手にした女性が玄関から飛び出してきたからだ。
「小次郎さん」
 佐々木小次郎。彼女もまた七荻荘の住人だった。
「貴様〜〜ぁ。よくも拙者の着替えを覗いたでござるなぁ〜〜!」
「……覗いたんですか?」
 呆れながら僕は半眼で武蔵さんを見た。
「寝惚けておっただけじゃ。水を飲んで自分の部屋へ戻っと思ったのじゃが……」
「小次郎さんの部屋で、中で彼女は着替えていたと?」
「うむ」
「本当に寝惚けていたんですか?」
 信じてあげたいが武蔵さんの女好き、覗き趣味を知っているだけに疑ってしまう。
「当たり前じゃ! 誰が好きこのんで小次郎の着替えなぞ見たいと思うか! ぬう。あの
女の着替えを思い出すだけでもおぞましい。鳥肌が立ってしもうだぞ」
「ほほ〜う」
 底冷えした声に恐る恐る顔を戻す。
―― 鬼です。
 般若。鬼女。破壊神。恐怖の大王女様。それらのフレーズを思い起こさせる形相の小次
郎さんが愛刀を上段に構えて立っていた。
「無断で拙者の柔肌を見た感想がそれか。……覚悟は出来ているのでござろうな?」
「ふっ。良いのか? 儂を攻撃すればまずは坊主がただでは済まないじゃろうのう」
「くっ。卑怯な! お主、それでも武士の端くれか!」
「今は武士ではないも〜ん。というわけで卑怯な作戦も問題なしなのじゃよ」
 背後から『クックック』と嫌な笑い声が聞こえてきた。
―― このままじゃ僕は小次郎さんの一撃を受けてしまう。
 彼女の一撃は全力なら岩をも砕く。頭を叩かれたら即死間違いなしだ。どうにかしてこ
の状況を打開するしかない。
 頭をフル回転させて僕は起死回生の策を考えた。
「あ、武蔵さん。そこに何故か女性の下着が!」
 左の方を指差して考えついた起死回生の策を即座に実行。
「な、何じゃと!? どこじゃどこじゃ! 白か? 黒か? はたまたレアは水色か?! 
どこじゃ坊主。教えんか!」
 予想通りに武蔵さんは僕の指差した方へと跳ぶと、四つん這いになってありもしない女
性の下着を探し始めた。
「嘘です」
「な!? 坊主、嘘つきは泥棒の始まりと言うて立派な大人には――」
「安心しろ。大家殿ならまかり間違ってもお主のようにはならぬだろうよ」
 武蔵さんの背後に回っていた小次郎さんが刀を大上段に構えた。
「なむ」
 これから起こるであろう惨劇に僕が合掌した……直後、
「地獄へ堕ちろ!」
 表現しづらい鈍い音が耳に届くのでありました。

 さて、制裁された武蔵さんと制裁を加えた小次郎さん。二人は紛れもなく本物の『宮本
武蔵』と『佐々木小次郎』その人だったりする。
 そう、歴史書や漫画などでも使われ多くの人達が知っている偉人だ。
 しかし、本物は歴史書や漫画の設定とはまるで違っていた。
 まず、小次郎さんが女性であること。どこでも小次郎さんは美男子剣士とされているが、
実際は美女剣士だった。
 ふたつめはライバルと思われてきたこの二人が実は恋人同士であるということ。
 決闘も全て逢引き―今で言うデート―であったが、他の女性に目移りばかりしている武
蔵さんに腹が立った小次郎さんが斬りかかり、それを見た周囲の人達が勝手に決闘を思い
こんだので歴史では決闘と記されたらしい。
 事実は小説よりも奇なりとはよくいったものである。

「はぁ……はぁ……いいか、もしまた拙者の着替えを覗くような不届きをしおったらこの
程度では済まさぬからな!」
 地面に顔をめり込ませている武蔵さんに向かって小次郎さんは吐き捨てる。さすがに大
岩を砕く威力だけにまともに受けた彼の体はピクピクと痙攣していた。
―― けど、武蔵さんはもう死んじゃってるし。
 死んだりはしないだろう。きっと数分後にはけろっとした顔で現れるに違いない。問題
は彼なんかよりも……。
「嗚呼、また修理費が……」
 2階の小次郎さんの部屋に大きな穴が空いていた。ガラスも粉々だ。いったい修理にどれ
だけのお金がかかるだろうか。
 頭の中で即座に計算し、予想金額が出たとたん頭が痛くなった。
「小次郎さん……」
「はっ!? も、もしや、せ、拙者はまた?」
 問い掛けてくる小次郎さんに僕は頷きながら惨状を指差した。
「も、申し訳ござらぬ! 大家殿、本当に申し訳ありませぬ。もちろん修理費用は拙者が
お支払いいたすます故にどうかお許しを!」
 さっきまでの威圧感はどこへやら。小次郎さんはその場に土下座して何度も頭を下げる。
「あ、頭を上げてください。同じ事を起こさなければいいですから」
 無理かもしれませんけど、と頭の中で付け加える。何せ二人が喧嘩して七荻荘を破壊す
るのは日常茶飯事なのだ。昨日だって廊下に大きな穴をあけられている。
 このままでは破産する日は遠くないかもしれないと思う今日この頃だった。
「はぁ。どうしてもあの馬鹿者の事となると自制できぬのです。そう、あの助平変態幼女
趣味の覗き男の馬鹿げた行動だけは……嗚呼、思い出しただけでも腹立たしい! あやつ
はいつもそうなのです。あの時も……」
 ブツブツと地面を見ながら小次郎さんが愚痴をもらす。どうやらまた武蔵さんの過去の
悪行に対して文句が止まらなくなったらしい。
 まあ、これもいつものことだ。
「こうなると小次郎ちゃんは長いし、放っておいてお掃除をやりなおしましょ」
「そうだね。けど、羅雪は戻って。そろそろ限界時間だよ」
「あら、もうそんな時間なの。でも、あと2分くらいは。節電にもなるし、ね? 健気な
お母さんのお願いき・い・て・く・だ・さ・い・な」
「何が健気なお母さんですか。却下です。ほらほら、早く部屋に戻って戻って。溶けちゃ
ったら見えないゴーストになっちゃいますよ」
「はいはい。優しい息子に育って私は天にも上るような嬉し……あら?」
 踵を返した羅雪が空を見上げて首をひねった。
「どうしたの?」
「女の子が降ってくるみたい」
「はい?」
 突拍子もない台詞に僕は思わず聞き返してしまう。
「ほら、あそこです。女の子が見えませんか?」
 羅雪の指差す方向へ目を凝らしてみると、女の子かはわからないけど何かが落下してい
るのはわかった。
「ふむ。確かにあれは女子でござるな」
「……よく二人ともわかるね」
 僕には小さな豆粒にしか見えなかった。
「私って人じゃありませんし」
「拙者はもともと目の方はよく見えたのですが、この存在になってからは更に見えるよう
になったでござるよ」
「なるほど」
 十分納得できる解答に僕はただただ頷くしかない。
「けど、このままじゃ危険ね」
「うむ、このままですと七荻荘に落ちるでござろうな」
「な、何ですって!? ど、どうしようどうしようど〜〜〜しよ〜〜〜!!」
 どうするもこうするも助けるしかない。このまま落下したら間違いなくその子は死んで
しまう。屋根や床にも大きな穴が空いて、更にはスプラッタ……。
―― 最悪じゃないか。
 顔から血の気が引いていくのを感じながら僕は空を見上げた。そこには小さかったはず
の女の子が……。
「あれ、いない?」
 さっきまで見えていた小さな存在が忽然と姿を消していた。
「すでにそこまで来ておりますぞ」
 小次郎さんが屋根の少し上を指差した刹那、瓦の割れる音と木のへし折れる音が盛大に
鳴り響き、もうもうと粉塵が屋根から立ち上る。
「お、終わってしまった……」
 最悪の事態に僕はその場に膝を突くことしかできなかった。

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