番外編「天国と地獄」

 かぽ〜〜〜〜ん。
 曇りガラスの引き戸一枚向こうから何かを置いたであろう音、少しの間があって大量の
水音が聞こえてくる。前者は桶で後者は湯船に貼られたお湯だろう。
 で、俺がいるのは脱衣所なわけで。つまりは目の前にある曇りガラスの向こうには……。
―― 風呂場だ。中には棗がいる。もちろん風呂場だからはだ……。
 うっかりと想像してしまいそうになり俺は額を床に打ち付けた。目から火花か星でも飛
び出たのではと錯覚するほどの激痛は狙い通り妄想を打ち消す。
『今の音はなに?』
 ガラスの向こうから問いかけられる。声の主はとうぜん棗だ。
「気にするな。気にしたら負けだ」
『そう』
「そうだ。……っていうかよ。何で俺はこんな所で正座なんぞしてるのでしょうか?」
『貴方が私の提案を拒否したからでしょう。そこにいる事は貴方も承諾したはずです』
「あ〜そうだったそうだった」
 脱衣所にいるのは一緒に入らないのであれば入浴中であっても話をしたいので傍にい
ろと半ば命令されたからだ。本音を言えば俺も同じ考えだったからである。
『……そこが嫌だというのなら別に考え直しても構わないのよ?』
「いや、遠慮しとく」
 棗が肯定を望んでいるとわかっていても俺はあえてその申し出を拒否した。
―― いや、できれば拒否はしたくないんだけどな。
 棗の提案とは至極簡単な事だった。単に一緒にお風呂に入るという世間一般の親しい恋
人であれば一度は発生させているイベントだ。
 いちおう俺と棗も恋人同士。発生させても構わないイベントのはずなんだが……。
『お嬢様と一緒に入浴……』
『あたい達だって一度もないってのっに!』
『く〜る〜し〜め〜このっこのっこの〜〜〜っ!』
 怒り、妬み、憎しみ(呪詛)など負の感情得盛りの台詞と向けられる無数の殺気が俺に
拒否の答えを口にさせていた。
 もはや何者かなどと考えるまでもない。メイド女、間違いなく全員が暗部の連中だ。姿
を消して潜んでいるらしい。
 連中に襲われるとわかっていながら一緒に入ると言える度胸も勇気も俺にはなかった
―― ま、そうするのも連中にとって棗がそれほど大切だって事なわけだし。
 ここはどうにかして連中に俺が棗に相応しいと、任せても安心だと思わせなくてはなら
ない。かといって易々認めてくれる連中でも無し。
―― 棗と釣り合うっていうのに加えて連中の説得か。
 エベレスト登頂並にデカ過ぎる試練に何とも気が重い。と、まあそういう状況であった。
「あ〜〜そういやさ、お前は誰かと一緒に風呂って入ったことないのか?」
 黙って気まずくなるのもアレなので何とはなしに話題を振ってみた。
『貴方と出会うまではメイド達に一緒に入ってもらっていましたが以後はありません』
「何でだ?」
『き、決まっているでしょう。私の全ては決縁者である彩樹のモノ。貴方以外の存在にう、生
まれたままの姿を見せるのは嫌になったの』
 いきなりの告白に顔が勝手に熱くなった。が、3秒とたたずに冷えた。向けられる殺気
がさっきよりも色濃くなったからだ。
―― 言っておくがギャグじゃないぞ?
 危険レベルをイエローからオレンジに変更しながら誰にでもなく思う。
『この男があのとき出しゃばらなければ私の順番となっていたというのにっ!』
『間違いなくお嬢様とご一緒に入浴できていた。そしてお嬢様の綺麗なお背中を……うく』
『あ、滴り音。七幸が興奮のあまり鼻から出血したと決定づけてみたり』
『あ、姉上様!』
『おほほほほ。ミミミの耳はウサのミミ〜と既に周知の事実を宣伝してみたり』
『今後……お、……じょう……まと一緒に、入れる…は…あの男だけなんですね』
 その台詞を最後にメイド女達の会話が止まった。非常によろしくない会話展開だった。
「ちなみに生まれたままの姿を俺以外に見られたらどうするんだ?」
 会話を止めたら死ぬ。確信めいた予感に俺は会話は絶対に止めまいと続けて問いかける。
『殺します。例え相手が同性であろうとも』
 底冷えするような声。子供が耳にすれば間違いなく大泣き、大人であっても腰を抜かし
たであろう迫力があった。ちなみに俺はどうにか数秒ほど呼吸を忘れた程度で済んだ。
『……そういえば春の湯のサウナで本郷晴香に見られたという報告が』
 刹那、外への出入り口が勢いよく開いて閉じた。死の危険が俺から晴香へ。
「お、おいおい! 頼むから殺すなよ?!」
『………そうね。彼女は気絶した私を介抱しただけですし、それに彼女や芦原春賀には大
きな借りがあります。あの時に関しては目をつぶりましょう』
「だそうだ。わかったらさっさと出ていったヤツらを止めろって!」
 棗の返答を聞くや間髪入れず怒鳴った。再び出入り口が勢いよく開いて閉じる。ギリギ
リかもしれないが晴香の危険は回避できるだろう。……後で要確認だ。
『さっきから何を怒鳴っているの?』
「いやいやいやいや。怒鳴ってない怒鳴ってないぞ。空耳じゃないか?」
 わざとらしいとはわかりつつも俺は誤魔化した。
『……………そう。そういうこと』
「……は? 何ですかその理解しました的な台詞は」
『文字通り理解したの。そうよね。彩樹は一度決めた事を曲げたりしない人だわ。けれど
今は拒否したことを悔い、更に拒否を撤回できないもどかしさに苛まれている、違う?』
 逸れていた危険が大きなカーブを描いて戻ってきた。
「ち、違う! 違います! 棗さん、それは違いましてよ!」
『そんなに慌てなくていいのよ。怒ってなどいないわ。逆に嬉しく思ってるの。やはり両
想いの男女であれば、そ、その……お、お互いのは、肌を……は、恥ずかしい事を言わせ
ないで!』
 何やら水に何かを叩きつけたような音が聞こえてきた。どうやら恥ずかしさと怒りを湯
船にぶつけたらしい。その後で両頬を押さえながら赤面する棗が想像できた。
―― ヤバイ。凄くその顔がみたい。貴重過ぎるその表情をみたい
 心がそう望むと手は自然と引き戸に手をかけていた。
『くっ! お嬢様が幸せになるのなら我慢しなくてはっ』
『が〜ま〜ん〜』
『するしかないのか。この激情をっ!』
『あ〜あ〜。忠告忠告してみたり。ミミミを含め30人の暗部全員の心拍数上昇、運動器
官への血液供給増大中で――』
 部屋中から盛大な拍手か土砂降りを連想させる勢いで銃の撃鉄を引いた音が発せられる。
 俺は引き戸に手を掛けた状態で凍り付いた。
『殺意の我慢も限界域だったり。さてさて、この殺意をどうしたらいいか聞いてみたり?』
 俺は無言をもって答えた。というか答える時間を全て危険回避の作戦につぎ込んだ。
―― 逃げられると思いますか?
 無理。
―― 何で俺ってこんな状況にばかり陥るんでしょうね?
 棗を受け入れた時点での運命と諦めろ。
―― 選択肢はふたつか?
 甘んじてメイド女達の粛正を受けるか、引き戸を開け放って嬉し恥ずかしの世界へ飛び
込むか。もはや選ぶ余地はない。
―― いざ! 嬉し恥ずかしパラダイスへ!
 俺は右手に力を込めた。
 刹那、
『捕縛』
 視界が上下逆さまになった。両手足が動かせなくなった。あっという間に引き戸が遠ざ
かって、脱衣所が遠ざかって、最後に意識が遠ざかって……。
 目を覚ますと裸電球が1個ぷらりと吊り下げられた部屋に転がっていた。
―― こ、ここは……。
 見覚えがあった。
 メイド服に着替えさせられた挙句にゴム弾をしこたま叩き込まれた事件。あの事件の始
まりがここだった。
 恐らくは暗部メイド専用の部屋だろう。何をするのかは激しく考えたくないが。
「もちろん、ここはお仕置き部屋だよって言ってみたり。あ、正確には拷問」
 笑いを含む声が耳に届いたかと思うといきなり足が引っ張られた。抵抗する間もなく坂
吊りにされてしまう。
「やほ〜い」
 声の主は満面の笑みを浮かべながら手を振っていた。頭にウサ耳のカチューシャをつけ
たメイド女……確かミミミとかいうヤツだ。
 それから玲子、七幸、十三子、二四那、四十華と続々姿を現す。その手に柔らかそうな
鳥の羽を持って。
「おい、まさかお仕置きって……」
 これから訪れる地獄に俺は体を強ばらせた。
「既に言い訳は作成済み。私どもの幸せを奪った報いを受けていただきます」
 と玲子。
「頼むからすぐにはまいってくれるなよ」
 と七幸。
「くっ。ごめんね“ガン”ちゃん。今回は“ガン”ちゃんお留守番なんだよ。いつかその
逞しい砲身を回転させまくってあげっからね!」
 と十三子。
「くっくっく〜。わ〜ら〜い〜じ〜に〜だ〜」
 と二四那。
「あ、……その、うん…め…としてうけ、いれ……ろ」
 と四十華。

 唇を引いてうっすらと笑いながらメイド女達は一歩、一歩と近づいてくる。

 指先で羽を弄びながら近づいてくる連中が俺には巨大な鎌を担ぐ死神に見えた。

 そして数秒後……俺はくすぐり地獄の刑に処せられた。

 嗚呼、俺がこいつらを気にせず棗とイチャつけるのはいつの事やら……。

 注意:これは本編で両想いになる前に書いたものです。

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