−健康−

 去年は入院ばかりしていたので今年こそは健康に過ごせますようにと思いながら俺が願
いを口にした刹那、拝殿の引き戸が勢いよく開いた。
「お主の願い聞き届けよう! では早速儂と武者修行の旅に……とは思ったが、それでは
孫達に叱られてしまうでな。代わりに儂がもっとも信頼するメイド長に鍛えてもらうこと
にした!」
 中から出てきた神氏が叫ぶと肩を2度叩かれた。振り返ると柔道着を着込んだ長身のメ
イドが爽やかな笑みを浮かべていた。
「えっと、何で鍛えるんですかね?」
「健康は強い肉体あってこそじゃ! さあ、君もこれに着替えるとよい」
「この寒い中にこれだけか」
 俺は投げかけられた柔道着を無意味に広げてみた。
「あの、拒否権は?」
 そう質問を投げかけると神氏はくわっと目を見開いた。拒否不可!という無音の声が確
かに聞こえた。
「了解です」
 しぶしぶ俺は拝殿の中で着替えた。外に用意された簡易柔道場の上に立つ。メイド長と
呼ばれた彼女も俺と相対するように立った。
「うむ。これは真剣勝負じゃ。二人とも良いな」
 俺とメイド長は互いに頷き、
「では、始め!」
 神氏のかけ声で同時に畳を蹴った。組み合う。中学、高校の授業で習っただけだがクラ
ス内での試合で負けたことはない。相手がメイド女でも少しは保つ、と思ったんだが……。
「はっ!」
 10秒たたずに一本背おいで投げられた。
「技あり!」
 神氏の声が耳に届く。
――― やば!
 投げられて呆けている場合ではなかった。投げられて一本でなければ勝負は終わらない。
まだ押さえ込みが残っているのだ。慌てて体を横に捻って立ち上がった。
「……はじめ!」
 少し意味合いは違うが第二ラウンド開始。組み合うと同時に俺は押しにかかった。メイ
ド長はその押しに逆らうよう力を込めてきた。
――― 罠かそれともチャンスか。
 考えている余裕はない。俺は相手を引き寄せそのまま内股を仕掛けた。メイド長の体が
宙を舞い、畳の上に倒れた。
「有効!」
 すかさず俺は押さえ込みに入った。後は25秒以上押さえ込めば勝ちだった。
「………5秒………10秒」
 神氏が5秒刻みで時間を口にする。その間もメイド長は押さえ込みから抜けようと必死
にもがき、そうはさせじと俺は押さえ込んだ。
「……15秒……20秒……」
 押さえ込みは完璧だった。どうやらメイド長とやらは玲子達のように化け物じみている
わけではないらしい。
――― 勝った!
 そう確信して顔を上げると……頬を引きつらせながら笑う恵の顔が目の前にあった。
「……おぅ?」
「何をしておるのじゃ?」
「何って柔道。見ればわかるだろ」
「ほう。柔道か。……実に楽しそうじゃのう」
「あ、ああ。久しぶりに体を動かして気持ちいいっていうか」
「メイド長の胸を頬で感じて気持ちいいというのじゃろう?」
 小さな恵の手が俺の髪の毛を掴んだ。
――― お、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?
 勝負に夢中になっていて気付かなかったが俺は凄い事をしていた。異性相手に横四方固
め。男なら同性相手でも滅多にしない固め技だ。逆に男の異性にしたい固め技ナンバーワ
ンだと思う。いま、俺はそれをしていた。もう少し詳しく状況を説明すると頬をやや控え
めだが弾力のある胸に押しつけ、右腕は言葉にするとかなりマズイ事になっている。
 が、その固め技は端から見れば確かに破廉恥行為にしか見えないわけで。しかもそれ人
物が自分に対して好意を持っていれば尚更のことで……。
「柔道か。メイド長では相手としては不足じゃろう。代わってやろうではないか」
 恵はメイド長を見た。それを受けてメイド長はのそのそと俺の横四方堅めから抜け出た。
俺はというと恵が髪の毛を持っているので体は宙ぶらりん。微妙に引っ張られて痛い。
「ではやろうか、彩樹」
 無邪気な笑みと共に囁かれたかと思うと俺は宙を舞った。そのまま石の地面に叩きつけ
られる。背中を襲った痛みと叩きつけられた衝撃によって息が詰まった。
「有効!」
 間違いなく一本であったはずなのに神氏はそう叫ぶ。
――― 何でですか!?
 口パクで抗議すると神氏は口パクでこう答えた。
――― 一本にすると恵に嫌われるでのう。孫には嫌われとうない。
 つまりは恵の怒りが収まるまで一本による勝負終了はありえないということだろうか。
「有効であったか。なれば押さえ込みをせねば、な!」
 近づいてきた恵は俺の腕を両手で掴むとそのまま腕ひしぎ十字固めを極めた。

「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
 彩樹の絶叫が静かな神社に響き渡る。

 そんな悲惨な光景を目にしていた神氏は………。

「健全な肉体は健全な精神に宿るという。破廉恥行為を無意識にしてしまうその精神を恵
に浄化してもらうのじゃ。彩樹君、これも修行じゃよ」

 涙ながらにそう呟いたような。

健康選択編 完!

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