−学業−

 いちおうあいつと付き合うなら少しでも頭がいい方がいいだろうと思いながら俺が願い
を口にした刹那、拝殿の引き戸が勢いよく開いた。
「お主の願い聞き届けよう! さあ、素晴らしい家庭教師を用意したぞ!」
 抵抗する間もなく引っ張り込まれた拝殿内で紹介されたのはよく知った人物であった。
「貴男様に帝王学を一から教えてさしあげましょう」
 そう言いながらメイド女・鏡花は眼鏡の蝶番を正した。いつもの眼鏡よりレンズの先が
尖っているように見えるのは気のせいだろうか。
「気のせいではありません。これは教える側のたしなみにございます」
――― な、何でわかった!?
 驚く俺を見て鏡花はクスリと笑った。
「読心術に御座います。貴男様がこれから関わろうとする世界では様々な取引や駆け引き
があることでしょう。読心術はそれらで大いに役立つはずです」
「ま、まあ、そうかもしれんな。けど、読心術つったって超能力じゃねぇんだから必ず役
立つとは―――」
「必ず役立つようになるまでお教えして差し上げます! さあ、真っ直ぐにわたくしの顔
をご覧になってくださいませ」
「お、おう。けど読心術って学業じゃないんじゃ―――」
「文句を言わずに見てください」
「わ、わかったよ」
 言われた通りに俺は教育者の顔をしている鏡花を見た。が、何だか異性に見つめられて
いること思ったら恥ずかしくなったので顔を逸らす。
「何をしているのですか! わたくしを心の中で敵と思いなさい!」
 鏡花の両手が俺の顔を挟み無理矢理向きを変える。強い。女とは思えない腕力によって
再び俺は鏡花と顔を合わせることになった。
「しかし決して顔にそれを出してはいけません。また、目を背ければその時点で負けです。
犬同士では最初の睨み合いで目をそらした方がその時点で格下と見なされますが人でも当
てはまります。いいですね、目を逸らさずにわたくしの目だけを見るのです!」
「わ、わかったって」
 観念して俺は鏡花を真っ直ぐ見た。が、あまりにも顔が近い。間隔は指一本分。鏡花の
吐息が頬を撫でる。見るにしても近すぎると思い一歩後ろ下がった。
「お逃げならないでくださいませ」
 開いた距離を取り戻そうと鏡花が一歩前に出る。と、そのときだった。
「貴方達は何をしているのかしら?」
 やけに明るい声が発せられた。とたん、背中に氷がぶち込まれたような寒気が全身を駆
けめぐった。恐る恐る顔を横にずらしてこの主を見る。
「楽しそうね」
 棗が満面の笑みを浮かべていた。ほんの少し目線を下げてみると、右手が手にしていた
お椀を震えるほど強く握っている。
「も、持ってきてくれたのか」
「ええ。温まるだろうと思って。けれど、どうやら不要だったようね」
 ぐしゃり。音とたててお椀が砕け散った。しょう油汁とお餅が棗の手の中でその熱を表
すかのように湯気を立てている。
「あ、熱くないのか?」
「ええ。熱いですね」
「火傷してるよな?」
「ええ。しているでしょうね」
「大丈夫か?」
「…………言いたいことはそれだけ?」
 一歩、笑顔のままで棗が前に出た。同時に鏡花が俺から飛び退いた。そのまま足早に拝
殿の外へと向かう。
「鏡花」
 静かな、しかし凄まじく重い声に鏡花の動きがピタリと止まった。
「後でじっくりと言い訳を聞かせてもらいます。処分はその後に」
 それを聞くなり鏡花は大声で泣きながらその場から立ち去った。残るは俺と棗のみ。目
線で探せる範囲に神氏の姿はない。
「何を探しているの? 逃げ道かしら?」
「あ〜いや、ほら、誤解だって。さっきのあれは読心術を教えてくれるっつうんで仕方無
しに……ホントだぞ?」
「なら早速その読心術を役立ててみなさい。いま私はどう思っているかしら?」
 歩み寄ってきた棗がそっと俺の頬を撫でる。ただ軽く撫でられただけなのに全身が勝手
に震え出し、カチカチと歯が音を奏で始めた。
 こ、怖い。笑っているヤツをここまで怖いと思った事は初めてだった。
「さあ、言ってご覧なさいな」
 俺はもはや弁解不可能と悟り静かに答えた。
「怒ってらっしゃいます」
「正解」
 笑顔のまま棗の体が小さく沈む。次の瞬間、顎に強い衝撃を受けたかと思うと宙を舞っ
ていた。

「恵ならまだしも他の女に現を抜かすなど許しません!」

「だから誤解だって言って―――ぐは! やめ―――ぐぇ!」

 拝殿の中からは棗の怒声と彩樹の言い訳と呻き声が発せられ続ける。

 その様子を法光院神は雑煮を食べながら眺めていた。

「彩樹君、君はいま学んだことじゃろう。嫉妬した女子に言い訳なぞ通じんと。……嗚呼、
ただ転んだ女子に手を差し伸べただけで妻が激怒した時の事を思い出すわい」

 そして、ほろ苦い思い出に思いをはせたそうな。

学業選択編 完!

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