第九十八話「彩樹、行く」

 昼休みの一件で俺は法光院棗の心を射止めた男として注目の的になった。授業中は午前中に
も増してあちこちから興味、羨望、嫉妬と様々な色を含んだ視線を向けられ、休み時間も俺と
いう存在を見ようというお嬢様方で廊下が埋め尽くされた。
 気になって顔を向ければ黄色い声が、呼び声に応えて手を振ればやはり黄色い声が、何とも
動物園の客寄せパンダになった気分だった。
 ちなみに見る、呼ぶ、手を振るはOKだが手の届く範囲に近づくのはNGとなっている。
 このルールを作ったのは棗で理由はふたつ。
 ひとつは大勢に俺が囲まれる事の危険性を考慮してだ。囲んだ連中が全て風紀委員、もしく
は集まった人の影から風紀委員の襲撃があるかもしれない。俺としてもいきなりズブリな展開
は勘弁してほしいのでこのルールは願ってもないことだった。
 ふたつ目は単に棗の嫉妬だ。人気があるのはいいが、あくまで偶像としてであってそれ以上
になる可能性を極力取り除きたいんだろう。
 ふたつ目は完全に俺の憶測だが、
「素直に彩樹は私だけのモノなのっ! 他の女に手出しはさせないんだからっ! って言えば
いいのにさ」
 と、蘭にからかわれて反論もせずに顔を赤くしていたので当たっていると思う。
 それについては素直に嬉しいと感じたが、その場で言っても蘭に便乗してからかっていると
思われるのでやめておいた。
 他に周囲へのルールだけではなく俺の校内行動ルールも決められた。
 授業中は棗の横にいること。授業間の休み時間は基本的に棗と行動を共にし、それが不可能
であるときは蘭と縁、桐と桜のどちらかと行動を共にすること。
 これで相手が少数であれば対処ないし援軍到着までの時間稼ぎは可能となる。しかしそれは
近接攻撃メインであることに加えて少数であればという条件つき。マシンガン等の小火器での
武装や集団でこられた場合は援軍が来るまでひたすら逃げるのみしか対処の方法がない為だ。
 それについて棗曰く、
「放課後を除いて小火器を扱う可能性、集団での襲撃はゼロと考えていいわ。理由はたったひ
とつ、リスクの大きさよ。重火器を使えば彩樹だけではなく無関係の生徒も巻き添えになる。
集団での襲撃も彩樹が逃げれば同様ね。さて、巻き添えとなった生徒達の親はどうするか? 
子が可愛ければ間違いなく自らが持つ金と権力で犯人を見つけるでしょう。ひとりならまだし
も、下手をすれば数十の権力者から狙われる、それを覚悟で引き受ける者は少ないわ」
 と俺としても納得のいく内容だった。
 仮にそんなリスクでも受けるヤツ、放課後狙いで来るヤツがいたらどうするのかという問い
に、棗は笑みを浮かべて表情とは裏腹に冷えた声で一言口にした。
「武器を手にする前に地獄へ落とすわ」
 それに対して誰もが乾いた笑い声を返すしかできなかった。

 結局、危惧していた事態は全く起きず、パンダ気分を味わい続けて放課後を迎えた。

「本当にいいの?」
 放課後の校舎前、車の中から棗が問いかけてくる。
「ああ。こいつを置いていくのは忍びないからな」
 そう言って俺はママチャリのサドルを軽く何度か叩く。
 話の流れは簡単だ。車で一緒に帰ろうという棗の提案に自転車で帰る、理由は通学の相棒を
置き去りにできないからと返したからだ。
「でも……」
「連中や連中に雇われた敵が帰宅中に襲ってくるかもって心配はわかってるよ。けど、どうせ
お前の事だからメイド女をどっかに隠れさせてるんだろ?」
「え、ええ」
「なら安心だ。あいつらなら二流三流はもちろん、一流の暗殺者だって蹴散らしてくれるだろ
うしよ。いるんだとしたらそいつらには同情するね」
「……わかったわ。今日は自転車の帰宅を許します。けれど明日からは私と一緒に車で登校し
てもらいます」
「別に今まで通りでもいいと思うんだが」
「いけません、室峰さん! それは好感度ダウンな選択肢ですわ!」
 俺の肩を叩くなり桐は大仰にため息を漏らした。更にはダメだコイツと言わんばかりに肩を
竦める。
「は? 選択肢?」
「それはどうでも良いのです。室峰さん、棗さんがどうして一緒に登校したいのか。まかさ、
ま〜さ〜かわかっていないとは仰いませんよね?」
 押し付けられた人差し指がグリグリと抉られる。力は弱いが爪の部分は微妙に痛い。
「そりゃ俺を心配してだろ?」
 かといって抵抗すると桜に殺されかねないのでされるがままの状態で答えた。それに対して
桐は両の人差し指を交差して小さなバッテンを作る。
「落第レベルの回答です。関係が進んだのですから棗さんの気持ちをもう少し理解してほしい
ところですわ。そうは思いませんこと?」
「確かに。今の答えは縁だったとしてもゲンコツものだったね。ま、アタシの縁がそんなニブ
チンであるはずがないけど」
 隣にいた蘭は桐の言葉に頷きながら縁の頭を撫でた。
「え〜と、話が見えないんだが……」
「要約しますと棗さんはもう少し直球で伝えた方が、室峰さんは大いに意識改革をなさった方
が良いということです。いいですか、確かに棗さんは貴方を心配して車で一緒に帰ろうと仰っ
たかもしれません。ですがそれだけではありませんのよ。車で一緒に登校……車内で二人きり
の恋人は寄り添い合って互いの体温を感じて短い安らぎを得る……そんな専用ビジュアル有り
なラブラブイベントを――」
「お嬢様、かえって説明がわかりづらくなっております」
「え、ああ、ごめんなさい。では簡単に。棗さんは登校時の時間も貴方と一緒にいたいと仰り
たかったのですわ。時間は短いかもしれない、けれども一緒に過ごしたい……そんな乙女心を
微塵もわからないのは恋人として落第だと思いますわ」
「……」
 桐の指摘に心の中で頭を抱えながら俺はさっきから黙っている棗を見る。目が合うと顔を赤
くしてすぐにそっぽを向いてしまった。
「先に帰ります。明日からは一緒に登校してもらいますのでそのつもりで」
 言うだけ言うと声をかける間もなくパワーウィンドウが閉まって車は行ってしまった。
 何とも後味が悪い結果に自然と舌打ちしてしまう。左右から責める視線が追い打ちをかけて
自分を苛立たせる。
「全部俺が悪ぅございますよ」
 そう言わずにはいられなかった。
「後悔先に立たず。ですが人は後悔を経て成長するものですわ」
「レア君の場合はどれだけ経験すればいいんだか」
「でしたら蘭さんと縁さんの経験を教えて差し上げればよいのでは?」
「アタシは別にいいけど、どうする?」
「お前等のイチャイチャ見てたら砂吐いたり、痒みに悶え苦しみそうなんでパス」
「では頑張って独力でバッドエンドを回避するしかありませんね」
「努力するさ。バッドエンドは俺にとってデッドエンドとイコールなもんで」
 間違いなく一撃目は玲子の攻撃だろう。
 そんな俺の事情なんてわからない桐達は冗談と受け取って笑い出す。
「……そんで、行くの?」
 和やかムードは蘭のその一言で霧散した。
 上着の内ポケットに入れておいた手紙を取り出す。火守百織という人物からの決闘状。あえ
て危険な放課後に棗と離れた理由であり、今のところ俺が抱えている最大の問題だ。
「火守百織(かがみひおり)。2年生で風紀委員。格闘技に秀でているそうで、彼女に病院送
りにされた人が一番多いらしいですよ。聞いた話では病院送りにされた全員が誰だかわからな
いほど顔が腫れ上がっていたそうです」
 縁の情報に行きたい気が一気に失せてくる。絶対に無傷で帰れないであろうことが簡単に想
像できるからだ。
「つっても行かなきゃ全力で命狙われるらしいからな〜」
「なっちゃんにどうにかしてもらうって手は?」
「却下だ」
 蘭の提案に俺は間髪入れずそう答えた。
 手っ取り早く、尚かつ安全に今の状況を打開する方法は蘭の提案に従うことなのはわかって
いる。が、そうすれば火守百織はただではすまない。命までは奪わないと思うが、それに等し
い状態になるだろう。
 俺の一言でひとりの人生が終わる。自分は何もせず、好きな女の手によって。
 結果も方法のどちらも俺のプライドが許さない。
 何より……。
「俺は売られた喧嘩は買う主義なんだよ。自慢じゃないがこっち側に来る前はわざと負けた以
外に喧嘩で敗北したことはねぇ!」
「……じゃあ、縁や桜くん相手に勝てる自信ってある?」
 蘭の問いにふと二人の実力について考えてみた。
 縁については棗と蘭の誘拐事件の際で見せてもらっている。拳は鋭く的確に急所を狙ってい
たがいかんせん正直過ぎて狙いがわかりやすかった。加えて体格的に見ても腕力は俺の方が上
だろうから、勝てる可能性は十分にあるだろう。
 桜は……いかんせん未知数だ。体格的に見ても縁よりパワーはあるだろうし、常に冷静な性
格からいって結構な場数を踏んできていると思う。正直、勝てる可能性は低いだろう。
「あ〜、レア君ってば縁には勝てるけど、桜くんには勝てないって思ったでしょ?」
「まぁな」
「あま〜い、あの事件があって縁は弱い自分を克服する為に色々な特訓してるんだから。ね
〜、縁ぃ?」
「はい。まずは筋力を鍛え直してまして、この前測った時は握力が150kg、ベンチプレス
は200kgを楽にこなせるようになりました」
 照れながら信じられない事実を口にする縁に、思わず俺は腕や肩に手を伸ばす。触れた腕や
肩からは筋肉特有の堅さは一切無い。見た目からしても相変わらずほっそりしている。
「いやいやいや、ありえねぇって」
「そう言うと思ったよ。んじゃ、縁! やっておしまい!」
「えっと、あらほらさっさ〜」
 顔を赤くし、小声で応えた縁が忽然と姿を消す。首を巡らせて姿を探すも見つからない。見
上げてもいなかった。
―― どこいきやがった!?
 探せどどこにもいない。一瞬にしてどこかに隠れたか、それともメイド女の様に姿を消した
のか、そう思った所で両足首を掴まれる感覚に顔を下に向ける。
 しゃがんでいた縁が俺の両足首を掴んでいた。
「それじゃいきますね。よいしょ」
 少しも力のこもっていないかけ声と共に俺の体は縁の頭の上まで持ち上げられる。
 妙な浮遊感と足が地面についていない不安感、何よりも俺の体重を支える両足首にかかる圧
迫感と痛みが自分の身に起きている事を現実であることを語っている。
「どう? これでもまだ信じられないとか言わないよね?」
「信じました。現実です。参りました。下ろしてください」
 謝罪の言葉に蘭が頷くのを見て縁は俺をゆっくり地面に下ろす。表情に無理をしている様子
はなく俺の足首を掴む手、縁自信を支える足も腰も一切震えていない。つまり本当に62キロ
程度なら余裕ということだろう。
―― そういや縁も非常識組だったけか。ここの連中は俺側の常識が通じないのを忘れてたな
 頭を撫でられる縁を見ながら呆れつつも、その異常な成長っぷりには心底感心した。
「さてさて、これでレア君に勝てそうな相手がいなくなっちゃったね〜」
「うぐ」
 蘭の指摘に俺はそれしか返せなかった。
「ちなみに火守百織さんが病院送りにした人は今の僕より強いですよ」
「うぐぐぐぐ」
「もの凄い勢いで室峰さんの敗北フラグが立ちましたわ」
「まともに戦えば確実に敗北かと」
 フォローの欠片もなかった。とはいえ、連中がこうも俺が弱いと言う理由もわかっている。
「お前等がどうこう言おうとさっきも言った通り売られた喧嘩は買う。負けるとわかっていて
もな。かといって負けるつもりで戦うつもりもない」
「勝算は?」
「ゼロじゃないってくらいしか今は言えねえな。実力じゃ間違いなく相手が上だろうしよ」
「負けたら命の危険もありませんの?」
「それはないと断言できる。理由はアレだ」
 俺は昇降口前を指さした。
 蘭達は俺の指さした方向を見る。が、全員が眉をひそめ、意味がわからないと言わんばかり
に首を傾げた。
「あ? お前等の目はガラス玉か? 真っ赤な斧持って、私はとてもヤバイですって自己主張
してるメイド女が立ってこっちを見てるだろうが!」
 メイド服は玲子達と全く同じだから暗部メイドだろう。初めて見るヤツだった。ウェーブが
かった黒い髪は肩口まで伸び、前髪は長くここからじゃ目が隠れて見えない。
「あたしには見えないけど」
「僕も見えないです」
「わたくしにも生徒しか見えないですわ」
「同じく」
 4人の言葉に何度か目をこすり、改めて斧メイド女を見る。やはり俺の目にはその姿はハッ
キリと映った。きっとメイド女の得意技で姿を消しているんだろう。
 何で俺にだけ見えるのかは謎だが……。
「……とにかくいる。いくら俺を嫌っていても俺の死は棗を泣かせる。棗至上主義の連中なら
それは絶対に避ける事態だ」
「なるほどね。……レア君の決心は固いみたいだし、アタシはこれ以上止めないよ。けど、怪
我して帰ったらなっちゃんが悲しむのは忘れないこと」
「それについては一応考えがある。相手が乗ってくれれば何とかなるだろうよ」
「帰りが遅くなるでしょうからその言い訳は考えましたか?」
「それは帰り道で考える予定だ。つうか、どうせあいつの事だから薄々気づいてるだろうだろ
うし、メイド女から情報が流れてるだろ。わかっていて許可を出したって事はどんな言い訳で
もわかったフリをしてくれると思うぞ」
「怪我が酷くなければ、という条件付きかと」
「……わかってるよ。さってと、これ以上待たせて相手の機嫌を損ねて作戦失敗は勘弁だから
行くわ。んじゃ、またな」
 俺は4人に背を向け、右手をひらつかせながら歩き出す。
 体調は万全。やる気は十分。重かった気分も連中と話して軽くなった。
「また明日って言わないって事はボコボコ確定か〜。とりあえず合掌しとこうっと」
「な〜む〜」
「桜、わたくしの脳内に『それ以後、彼の姿を見た者は誰もいなかった……』というテロップ
が流れましたわ!」
「そうなった時は毎年ここに花を添えに来ることにいたしましょう」
 背後から聞こえてくる会話に自然と頬が引きつり、ひらつかせていた右手を握りしめる。
―― ここは俺の背に向かって応援する場面だろうが! あいつら……明日ぶん殴る!
 その為にも五体満足で勝って明日も変わらずに登校する。
 決意も新たに俺は火守百織の待つ拳道場へと向かった。


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