第九十五話「ノロケモノ」

 蘭と棗が話を始めたのと同時刻……。

 アーマビリータ女学院に男子トイレはひとつしかない。執事という名の奴隷が結構いる
ので広さはそれなりにあるが校舎から離れた1施設として存在している。
 何でそんな説明をしたかと言えば、そのトイレに来ているからに他ならない。何をしに
来たかは説明は不要だろう。
 正直なところ手早く済ませて教室に戻りたいのだが……。
「……」
 入り口で立ち止まっていた俺は一歩足を前に踏み出す。後ろから『えいっ』という可愛
らしいかけ声と共に靴音が聞こえてきた。
「……なぁ、桜。お前のご主人様は何がしたいんだ?」
 桜の主である裙坂桐の目的不明な行動に俺はほとほと困っていた。
 教室を出てからここに来るまでずっと附いてきては時折さっきのように自らの存在をア
ピールしているのだ。
 俺に用があるのか、一緒にいる桜に用があるのか、それとも彼女なりの遊びなのか判断
がつけられないから無視していたが、このままだと男子トイレにまで入りかねないのでこ
っちが根を上げるしかなかった。
「と、彼が言っておりますが?」
「お話してくださいな」
 主の奇行を止めることもなかった桜が問うと、桐は満面の笑顔と共に要求してきた。
「な、何のお話をでしょうか?」
 半ば予想はついていたがそう聞き返すと、
「棗さんとの聞いた側が頬を赤らめたり、身震いするような愛の物語を是非に」
 両手を頬に添えながら上目遣いで桐は要求してきた。
「そんなの棗から聞きゃあいいだろうが。頼めば喜んで話すと思うぞ」
「棗さんでは頬を染めたり身震いする暇もなく延々と聞かされそうなんですもの。ですが
貴方でしたらそういった事はないでしょうし、何より殿方から聞かされる惚気話なんて新
鮮みがあって良いと思いまして」
「嫌だと断ったら?」
「話してくれるまで離れません。具体的に言いますとトイレ中は背後に、お風呂中は正面
に、授業中も正面に、食事中は膝の上に、就寝中は隣にて話してくれるのを待ちます。棗
さんのお叱りや妨害行動なんて何のそので実行いたしますわ」
 満面の笑みを浮かべる桐に冗談を言っている雰囲気は微塵もなかった。もしも断れば間
違いなく今口にした事を実行するだろう。
 そうなった場合の事をほんの少し想像しただけで胃がチクチクと痛み出した。
「お前のご主人意外とえげつないな」
「知りたいと思った事には一生懸命と受け取ってほしいものだ」
「そう受け取るのはお前くらいだろうよ。……はいはい、わかりました。喋ります、喋り
ますから先にトイレ済ませてきていいか?」
「トイレの窓から逃げるおつもではないですわよね?」
「ははははは、ナンノコトヤラ」
 考えていた事はすぐさま見抜かれていた。
「ご安心ください、お嬢様。自分が一緒に行き、逃げぬよう見張っておきます」
「頼みます」
「はっ。では室峰、行こうか」
 桐の言葉に一礼した桜が俺の襟首を掴んでトイレへと引きずり始める。
「うぉっとと。わかった、自分で行くから引きずるの止めろよ!」
 抗議をするやすぐさま解放された。
「あ、室峰彩樹さん」
 乱れた服を直しつつトイレへと足を踏み入れた所で呼び止められる。
「何でしょうか、裙坂桐さん?」
「小さい方でも大きい方でも手早くお願いいたしますわ」
 あまりの下品な発言に俺は返す言葉もなく足を進めた。

 トイレを済ませた俺は二人を連れて4階の空き教室に入った。
 ここなら桐達の教室も近く、元より予備の教室しかないこの階は人の行き来がほとんど
ない。他人に聞かれたくない事を話すには絶好の場所だった。
「残り時間も少ないから話す話題はひとつだけだぞ」
「ええ。他の話はまた別の機会がありますものね」
「……これは棗と両想いになってから3日後の夜の事なんだが……」
「ちょっとお待ちくださいませ!」
「何だよ」
「夜のお話とは……その……ほら、あれですわ……ですから……大人な夜の営みのお話で
はありませんわよね?」
 話の出鼻をくじかれムッとしたのもつかの間、ピンクな内容を話し始めたと誤解された
事への恥ずかしさに顔が熱くなるのがわかった。
「ば、馬鹿野郎! んな事を話す奴がいるか! そもそも俺と棗はそういった事はまだし
てねえっての! いや、したくないと思ってないわけじゃ……って何言ってんだ俺は!」
 焦って口に出してしまった内容で更に焦ってしまう。穴があったら隠れたいという心境
がこれでもかというくらい理解出来た。
「ご、ごめんなさい。今のは聞かなかった事にいたしますから落ち着いてくださいな」
 頭を抱えて膝を突く俺を見た桐が慌てて取り繕う様に言う。
「本当か? 棗には言わんと思うが蘭あたりに滑って喋ったりするんじゃねぇのか?」
「我慢いたします! 桜、言いそうになったら私の口を塞ぎなさい! これは命令ですわ」
「は、はぁ」
 いきなりの滅茶苦茶な命令に桜は歯切れの悪い肯定で返した。
「これで大丈夫です。ささ、深呼吸してからお話を続けてください」
 その言葉に頷いて、俺は大きく深呼吸して焦った気持ちを少しずつ落ち着かせていく。
 と、7度目の深呼吸で落ち着いたのだが同時に始業を知らせるチャイムが校内に鳴り響
いた。
「今回はここまでだな」
「いいえ! ここまで来て聞かずに戻ったら気になって授業になりませんわ。もしかした
ら授業中に教室で話の続きを要求しかねません!」
「それは流石に勘弁してほしい。……お前のご主人様はこう言ってるが意見は?」
「お嬢様の望むままに」
「……わかった。んじゃ、棗と両想いになってから3日後の話だ。ふと夜中に目を覚まし
たら棗の奴がもぞもぞ動いてやがったんだ。気になって観察してたら腹が痛いとかで苦し
んでるんじゃないのはすぐにわかった」
「どうしてですの?」
「何度も寝言で言ってたんだよ。両手で何かを必須に掴もうとしながら置いていかない
で、独りにしないでってな。……気づいたらその手を掴んで……その、抱き締めてた」
 その時の事を思い出したとたん、さっき引いた顔の熱がぶり返してきた。
「まぁまぁまぁ! 愛する殿方の抱擁……悪夢なんてきっと吹き飛んでしまったに違いあ
りませんわ! そうですわよね?」
「ん、まぁ……悪夢はどっか言ったらしいんだが、代わりに抱き締めてる俺の腕を離して
くれなくなった」
 恥ずかしさを誤魔化す為に俺は目線を反らしながら指で頬を掻いた。
「ふふふ、愛する人の温もりですから離したくなかったんですわね」
「で、引き剥がすのもあれなんでそのまま俺は寝たってんで話は終わりだ」
「最後にひとついいですか?」
「ん?」
「棗さんを抱き締めたとき何を思いましたか? あ、別に変な意味じゃありませんよ」
「……守ってやれてるって事に嬉しいと思ったよ。けど、妹や晴香を守ったときとは違っ
た嬉しさだった。安心じゃなくて別の何か温かい気持ちになったつうか……はは、何言っ
てんのかわかんねぇと思うけどな」
「私も経験した事がありませんからわかりますと言えませんが、何となく通じましたわ。
……ふふ、私にもいつかそのような温かさをくださる殿方が現れるといいですわね」
「ま、桜のお眼鏡に適うヤツなら大丈夫だろ。そんなヤツがほいほい現れるかはちと疑問
ではあるがな。いかず後家にならないよう気をつけろよ」
「ふふ、ですわね」
 俺達が揃って桜を見ると、心外だとばかりに両腕を組んで顔を背けた。
「さて、話も終わった事だし教室に戻るか。棗のヤツは間違いなく機嫌が悪くなってるだ
ろうからフォローに一苦労しそうだが」
「貴方は悪くないと私が口添えいたしますわ」
「頼む」
 そう答えて教室から出ようと扉を明けたそのとき、全身が粟立つ感覚に体が反応して後
ろに跳んでいた。
 刹那、風を切る音と共に横から拳が現れた。もしあと一歩前に出ていたら拳は俺の横っ
面を打ち抜いていたことだろう。
 尻餅をついたままあまりに急な展開に惚けていると拳が視界から消え、代わりに白いハ
チマキをつけたメイドが姿を現し、
「当たれば顔を変形させてやれたものを。勘だけは良いようだ」
 舌打ちの後に呟いたかと思うと、手にしていた白い封筒を投げつけてきた。
「誰だテメェは!」
「回答は全てそれに書いてある。忠告しておくが手紙の内容に従わない場合は……」
 ハチマキメイドは鋭い目で俺を見下ろしながら親指で首を切る仕草を見せる。その意味
は考えるまでもない。
 暫く睨み合いを続けたが、不意に鼻を鳴らしてハチマキメイドは踵を返して視界からい
なくなった。
「今の方は知り合い……ではないですよね?」
「ああ」
 桐の問いかけに俺は投げつけられた封筒を見ながら応えた。
 封筒には毛筆で書いたであろう『決闘状』の文字。中には便せんが一枚。

 それにはこう書いてあった。

 『本日放課後に拳道場に来い。

  来なかったら全力で命狙いに行くんでよろしく〜☆

                            火守 百織』


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