第九十一話「新生活」

「あら、ご覧になって棗さんよ!」
「本当ですわ!」
 入ってきた棗を気づくなり私立アーマビリータ女学院の1−Cで談笑していた女子生徒
達は驚きの声を上げてから一斉に駆け寄ってきた。
「お久しぶりですわ、棗さん。長期のお休みでしたがご旅行か何かでしたので?」
「先生に問い合わせても知らぬ存ぜぬで。ご病気でないか心配しておりましたのよ」
「元気そうで何よりですこと」
「あら、ちょっと雰囲気がお変わりになられたような」
 集まったクラスメイトから矢継ぎ早に言葉が投げかけられる。
 俺の家出―逃亡劇が正しいか―から始まってハル達との喧嘩、連中の結婚式に参加と棗
への告白、そして告白後の勉強などで棗は3週間も学院を無断で休んでいた。
 そんな棗がひょっこり登校してきたのだから当然といえば当然の反応だろう。後ろから
様子を窺うと誰もが純粋に棗を気遣っている表情を浮かべている。
 奴隷の存在が常識だったりする連中なだけに、こんな普通の微笑ましい光景を拝めると
は思わなかった俺は少しばかり感動してしまった。
「片付けなくてはならない私事が多くなってしまったのでお休みをいただきましたの。最
初の数日間は忙しさのあまり学院への連絡を怠っていたので、連絡をする前にお聞きにな
ったのではないかしら。ええ、多少仕事の疲れは残っておりますが元気ですわ。ふふっ、
お休みをいただいている間に良いことがありましたので」
 律儀にも棗はひとりひとりに答えを返していく。
 ふと棗から視線を外して教室内を左から見渡すと、すぐさま父兄参観よろしく若い男達
が立っていてその中には縁や桜の姿もあった。
―― って事は連中はもう来てるのか
 更に視線を動かすと窓際中央の席に縁の主である豊阿弥蘭と桜の主である裙坂桐の姿を
見つけた。こちらが気づいたと知ったのか蘭は小さく手を挙げ、桐も小さく手を振って挨
拶してくる。
―― おーっす。
 そう心の中だけで砕けた挨拶を返し、2人に対して頭を下げる。一応ここではまだ
『奴隷』なので棗の奴に迷惑をかけない為の俺なりの配慮だった。

 と、そこでホームルーム開始のチャイムが鳴った。

 俺にとって立っているだけの退屈極まりない1時限目の授業が終わって教師が教室から
出て行くや否や蘭と桐が棗の席に駆け寄ってきた。他のクラスメイト達はというと各々談
笑を始めていて集まる様子は全くない。
―― 朝の受け答えで満足したってところか
 そう結論づけてクラスメイト達から棗達へと視線を戻す。蘭と桐は両腰に手を当ててい
かにも怒っていますという感じで何かを言っていた。教壇前の棗の席からは談笑の声に邪
魔されて聞こえないが何も知らせずに欠席した事へのお説教だろう。
 どうにか聞こえないものかと目を閉じて耳を澄ましていると、
「彩樹さん、彩樹さん」
 隣にいる縁が服の袖を何度か引きながら話しかけてきた。
「どうかしたのか? もしかしてお前にはあいつらの話し声が聞こえるのか?」
「いえ、聞こえませんけど」
「なら何だよ」
「えっと、先日お嬢様が彩樹さんを追い返してしまった事を謝りたくて。その、……もし
かして追い返した事が原因で棗様や彩樹さんに何かあったんじゃないかと」
「それについては俺も謝罪したいと思っていた。すまない」
 ずっと黙っていた桜が口を開いたかと思えば小さく頭を下げてくる。
「謝る必要なんて無いって。確かにそれも原因のひとつではあるけどよ。結果的には丸く
収まったし、別に災難で休んでたわけじゃねぇから気にするな。むしろ……その何だ、良
いこともあったしよ」
「いいこと?」
「ん〜、実は……」
 縁達ならば教えても構わないだろうと口を開いた所で、
「彩樹、こっちへいらっしゃい」
「縁〜おいで〜」
「桜、私の元へ」
 お嬢様方からお呼びがかかった。俺達三人は何事かと互いに顔を合わせてからその言葉
に従ってそれぞれの主の隣へと移動した。
「どうかしたのお嬢様?」
「何かなっちゃんから発表があるんだってさ」
 縁と蘭の受け答えで既に状況は理解できた。
「おい、こんな無関係な連中の多いところで言うのか?」
「ここに通うのは政財界に精通した両親を持つ子達ばかり。子から親へ、親から世界へ話
は広まっていくわ。私と彩樹の関係を広めるには最も適した場所ではなくて?」
「別に広めなくてもいいと思うが。つうか、広めるメリットあるのか?」
 俺には尾ひれ背びれ、終いには胸びれまでついた悪い噂が広まるだけのような気がして
ならなかった。
「それに俺はまだ覚えることを覚えてないんだが……」
「広めるメリットは2つ。私には心に決めた相手がいるという事が広まる事、それにより
煩わしいお見合いの話がこなくなるであろう事よ」
「……見合い話がきてるのか?」
「1週間に1度は来てるわね。もちろん全部鏡花に断らせているけれど、断りの返事を考え
るのもいい加減面倒になってきたわ。それに私が想いを向けるのは彩樹だけだもの」
 そう言って棗は俺の腕に抱きついてきた。蘭と桐、棗の行動に気づいたらしいクラスメ
イトから驚きの声が上がる。目の前の事実が信じられないのか誰もが目を丸くしていた。
―― 連中からしたら棗がこんな事をするなんて想像もできなかったんだろうな
 ここでの棗は凜として男に抱きつくイメージなど微塵も見せたことはないのだから。
「も、もしかしてなっちゃん……」
「ええ。蘭さんがお思いの通りですわ。今ここで発表いたします! 私こと法光院棗とこ
こにいる室峰彩樹は先日互いの想いが通じ合い、晴れて恋人同士となりました!」
 そして棗の喜びに満ちた恋人宣言が静まりかえった教室に響き渡った。
 直後、
『そんなまさか!?』
『棗さまが奴隷と恋仲に!?』
『信じられませんわ!』
 クラスメイト大多数から悲鳴に近い驚きの声が上がり、
「うわぉ。さすがなっちゃん。有言実行ってやつじゃん!」
「おめでとうございます」
 事情を知っていたらしい蘭と縁からは祝福の声が送られ、
「あらまぁ、全然そのような素振りがありませんでしたから驚きですわ」
「ですが喜ばしいことかと」
「そうですわね」
 事情を知らなかったらしい桐と桜からは素直な感想の声と大小様々な波紋を生んだ。
―― んでもって、棗の予定通りならどんどん広がっていくらしいが……
 ふと後ろを振り返ってみれば敵意に満ちた視線が向けられていた。しかもその視線は俺
だけに向けられており、断片的に聞こえる陰口も俺が無理矢理云々の内容だ。
「な〜んか俺の悪口っつうか、悪事だけが広まりそうな気配だぞ」
「確かに内容には多々不満はあるけれど、私と彩樹がそういう関係になったという噂にな
ればこの際構いません」
「お前は良いかもしれねぇけど、俺にとってはストレスで胃に穴が空かないか心配になっ
てくるよ」
「安心なさい、すぐにでもそんな噂を払拭させるよう努力するつもりですから」
「……嫌な予感がするんで、どう努力するのか是非聞かせてもらいたいんですが」
 安心どころか逆に不安に駆られる含みのある表情を浮かべる棗に問いかけると、
「ないしょよ。色々するつもりだから楽しみにしてなさい」
 弾んだ声でそう耳打ちしてきた。もちろん俺は楽しみどころか嫌な予感が的中するのだ
と確信してため息を漏らし、
―― ま、これも棗と恋人になったことでの試練ってことで諦めるか
 そう自分で自分を納得させるのだった。


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