第八十六話「変化 ―其のイチ―」

 喫茶『道(ロード)』を離れたリムジンが邸に到着したのは午前10時を少し過ぎた頃だ
った。玄関前でゆっくりと停止してルクセインが扉を開けて出るよう促してくる。
『お帰りなさいませ、姫様』
 最初に車を降りた恵を盟子達が笑顔で帰りを出迎えた。
『お帰りなさいませ、お嬢様』
 次に車を降りた棗に対しても鏡花達が恭しく頭を下げて帰りを出迎えた。
『お帰りなさいませ、彩樹様』
 向けられた笑顔と忠誠と帰宅の挨拶に車を降りた俺は面食らった。盟子達は最初から様
付けで呼んではいたが鏡花達は違う。様付けどころか俺を名前で呼んだのかも怪しい連中
達だ。そんな連中がいきなり様付けで呼んだら誰だって驚く。
 念のために夢ではないかと自らの頬を力強く引っ張ってみた。
「……痛いから夢じゃない。となると空から隕石が……降っては来ないか。んで、いきな
り様付けってのはどういう風の吹き回しだ?」
「今朝方双葉からお嬢様との仲がより親密となったとお聞きいたしました。お嬢様に見合
うだけの知識を身につける努力を決意されたことも」
「ちょっと待て。……もしかしてアレを聞いたのか?」
「ええ、録音でしたがしっかりと3度ほど聞かせていただきましたわ。恐らくは全てのメ
イドが聞いているかと」
「な、なんてこった……」
 あまりの衝撃的恥ずかし事実に俺はその場に両手と両膝を突く。出来ることなら天の岩
戸に籠もりたい心境だった。
「そこまで落ち込まずとも」
「告白を他人に聞かれるってのがどれほど恥ずかしいかお前にわかるか?! あぁ?!」
「経験した事がありませんのでわかりません」
 俺が放った非難はバッサリと切り捨てられた。
「話を戻しますわ。お嬢様と添い遂げるとなれば貴方様はいずれ私共の主となるお方。で
あれば今までのような扱いをすべきではないと考えました。よって本日より私共は彩樹様、
貴方をお嬢様と同じようにお仕えいたします」
 そう言うと鏡花達は全員一寸の乱れもなく頭を下げてきた。ほんのちょっとばかり優越
感に浸るもすぐに頭を振って気持ちを切り替える。
 これは棗を幸せにする限りは忠義を尽くすという誓約なのだ。いや、ある意味契約と言
った方が正解かもしれない。
「ギブ・アンド・テイクってことか」
「ご不満でございますか?」
「不満がある奴がいたら見たいもんだ。んで、私共ってのはどこまで含まれるんだ?」
「私が統括しておりますローズ・コレールのみです。ディフェンシオ・メイデンや暗部か
らは賛同を得られませんでした」
「……ローズやらディフェなんとかってのは何だ? 何となく種類っぽいってのはわかる
んだが」
「ローズ・コレールは私共と同じ朱のメイド服に身を包んだ者達です。貴方様の言葉で言
うなればお世話メイドにございますね。ディフェンシオ・メイデンはこの邸の警備してい
るメイドを指します。服装は様々ですがほとんどメイド服を着用しておりませんので見分
けがつくかと存じます。暗部については――」
「連中の事は忘れたくても忘れられないっての。今もそこらかしこから敵意のこもった視
線を向けられてるしな」
 最低でも前後左右から各ひとりずつ見られている。
 監視なのか嫌がらせなのか。恐らくは両方なのだろうと思う。少しでも苦しむと連中が
喜ぶだけなので俺としては平然として対抗していた。
 ちなみに全身が粟だった時は敵意が殺意に変わったという危険シグナルだ。
「ご愁傷様です」
 ため息をもらす俺を見て鏡花を始めお世話メイド達は揃って苦笑を漏らした。
「本当にそう思ってるのか?」
「本心にございますわ。しかし、いずれは全メイドに認められるようにならねばならない
事はお忘れ無く」
「努力するさ」
「では、改めまして。……おかえりなさいませ、彩樹様。どうぞ中へ」
 出迎えてくれたメイド達が鏡花に倣って一斉に頭を下げる。何ともむず痒い気分を感じ
ながら俺は邸の中へと入るのだった。


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