第六十九話「A lie born of a lie」

「晴香から手を離せ」

 低く鋭い声。爆発寸前の怒りを押し殺した声でハルが俺に命令してきた。
「却下だ。晴香は俺がもらう」
「それこそ却下だ。晴香を殴って泣かすようなお前なんかに渡せない。それだけじゃない」
ハルは目線を晴香へと向け、
「オレも晴香を心から想ってる。好きや愛してるなんて言葉だけじゃ表せないくらいに晴
香を想ってるから……誰にも、誰にも渡したくないんだ!」
 最初は静かに、最後は激しく言葉を吐いたあとハルが俺に向かって力強く地を蹴った。
ぐんぐん迫ってくる。拳が振り上げられ、鋭い一撃が俺の顔面に向かって繰り出された。
「ぐっ」
 あえてその一撃を頬で受ける。さすがに直撃はきついので当たる寸前に後ろへ跳んで威
力は殺した。地面を少し転がってから勢いを利用して立ち上がる。
―― 結構効いたぜ。
 頬がじんじんと痛む。何気なしに口元を拭ってみると手の甲に薄っすらと血が付いてい
た。直撃だったら歯の1、2本は間違いなく折れていただろう。
―― さてと、これでハンデはなしだ。
 追撃してきたハルを見る。またしても右の拳を繰り出していた。
「あまい」
 強烈な一撃を流すように払い、がら空きになった腹部へ拳を叩き込む。さらにくの字に
なったハルの後頭部を殴り飛ばし、地面に倒れたと同時に頭を踏みつけた。
「もう終わりか。はっ、期待はずれもいいとこだぜ。完全にキレれば少しはマシになると
思ったのによ、あ?」
 動かないハルの頭を足でえぐる。
「だ……まれ」
 呻きに近い声で反論したかと思うとハルが地面に手をついた。足が小さく持ち上がる。
が、そう易々と立たせるわけにはいかない。
「黙るのはお前だ、ろ!」
 腰を入れて再びハルを地面に押しつける。
「さっさと諦めろ。お前じゃ俺に勝てねえよ」
「いや……だ。諦めない。絶対に晴香は渡さない!」
 徐々に持ち上がるハルの体から強固な意志を感じた。立ち上がって晴香を奪おうとする
敵である俺と対峙するという絶対的な意志を。
―― ここらが潮時か。
 ハルは晴香に対する自分の想いを口にした。これで晴香の内にあったハルに対する不満
もなくなるだろう。後はこんな強攻策を実行したけじめをつけるのみ……。
 力を込めていた足の力を抜こうとしたそのとき、
「ハルをいじめるな〜〜〜〜〜っ!!」
 後頭部に激しい衝撃が襲った。反射的に背後を振り返るとバットを振り下ろした晴香が
視界に入る。不幸中の幸いというのかバットは木製でも金属でもない子供が使うプラスチ
ック製のものだった。
 同時に勢いよくハルが起きあがった。見事な連携だ。
「のあっ」
 バランスを失って俺は地面に倒れる。間髪入れずにハルが跨ってきた。
―― マウントポジション。
 望んだものだが絶体絶命の状況っていうのは気分のいいものじゃなかった。
「渡さない!」
 一撃目。
「彩樹にだって晴香は渡さない!」
 二撃目。呼び方があだ名でない事にハルのヤツは気付いていないだろう。
「よくも晴香を殴ったな!」
 三撃目。
「よくも晴香を泣かせたな!」
 四撃目。
「よくも……よくも! オレに嘘なんて言ったな!」
 五撃目。次いで六撃目が繰り出されたが俺はその拳が命中する前にハルの足首に爪を突
き立てた。足首の痛みに小さく呻き、繰り出された拳が寸前の所で停止する。
「誰がいつ嘘なんて言ったっていうんだよ!」
 握る力を徐々に強めつつ、俺はハルを睨みつけた。
「言ったさ! 晴香がほしいだなんて嘘を!」
「嘘じゃねえ! 俺は本気で――」
「嘘だ! 彩樹は晴香をほしがらない! 彩樹がほしいのは別の子だろ!」
「別の子、だと?」
 予想外の話しの展開に困惑して、思わず俺は掴んでいた力を緩めてしまった。
「ああ、そうさ。殴られたショックで急に思い出したよ。彩樹。お前は何度か晴香を別の
名前で呼んだ事があったね?」
 ハルの問いがひとつの記憶を刺激した。
―― やめろ。
 それは封印した記憶。
「その頃は単なる呼び間違いだって思ってた。だから気にしてなかった。けど、この際だ
から訊かせてもらう」
 それは封印した想い。
「彩樹……晴香を何度か『棗』って呼んでただろ」
 それは封印した事実。
「晴香と初めて出会ったとき、彩樹は晴香やオレを助けようとしたんじゃないんだろ」
「思い出させるな!」
「あの子が急に姿を消した事への怒りを発散させただけだろ」
「やめろ……」
 それ以上は言わせたくなかった。
「晴香は彩樹にとっていなくなったあの子の代わりだったんだろ!」
「黙れ!」
 どこにそんな力があったのか、自分でも驚くべき力で俺は身を起こすと、自由になった
右の拳をハルの左頬に叩き込んだ。立ち上がって倒れたハルの襟首を掴み上げる。
 何か言い返したかった。違うと大声で叫びたかった。
 しかし、それよりも早く……。
「彩樹が好きなのは晴香じゃない。だから彩樹は晴香を欲しがったりしないんだよ!」
 腹部に鋭く重い衝撃が襲う。死角から繰り出された一撃に俺は襟首から手を離して地面
に膝を突いた。
「室峰彩樹がずっと欲しがってたのは、オレ達の卒園後に急に姿を消したお姫様……棗ち
ゃんだったんだろ!」
 ハルの最後の一言で全てを、忘れていた記憶を思い出した。

 服の裾を掴んでは離さなかった少女。

 色々と無理難題をふっかけてきた少女。

 何より一緒にいることが楽しかった少女。

 夢であったかのように姿を消してしまった少女。

 そして、その代わりとして別の少女を見つけた事を……。

 全部思い出し、理解した。

「反論は?」
 あるはずがない。ハルの言ったことは全て当たっている。間違いなくあの時の俺は怒り
のはけ口を求め、また消えた少女の代わりを欲していた。
 そして晴香と出会い……。
―― 結ばれようとして冷めるまで俺は晴香を晴香として見ていなかったんだ。
 自らの馬鹿さ加減に腹が立った。同時にもしこの事が知られたら二人は俺から離れてい
くのだと怖くなった。だから俺は記憶を奥底に封印して、その事実を忘れていたんだ。
「何も言わないって事は認めるんだね。なら、オレのとる行動はたったひとつだ!」
 言葉の後にハルのつま先が跳ね上がり、真っ直ぐに俺のみぞおちへと突き刺さった。さ
っきの拳とは格段の威力だ。さらにみぞおちを圧迫されたことにより呼吸困難に陥ってし
まう。
「まだまだ!」
 髪を鷲づかみされたまま持ち上げられた。
「そう簡単にオレの怒りは静まらない!」
 顔に拳が叩き込まれた。
「晴香を彼女の代わりだと思っていたお前を許さない!」
 間をおかずして2発目。避けることも防ぐこともできた。ワザとそうしているんだと思
う。しかし、抵抗する気は毛頭なかった。
 単なる自己満足だが、殴られることで少しでもハルの怒りが静まればいいと、晴香への
償いになればいいと思った。
「晴香への想いが嘘だった事が許せない!」
 頭を地面に叩きつけられる。鈍い痛みがじんわりと頭に響いた。

「このっ!! 馬鹿野郎―――――っ!!!!」

 何度も何度も何度も何度も加えられる攻撃と共にハルの怒声が耳に届く。

―― 自業自得、か。

 我が事ながら本当にムカついた。

―― 何が嘘は嫌いだ。

 その嘘をずっと貫き通していたのは誰でもない俺だったなんて。

―― 馬鹿だ、アホだ、愚か者だ。

 史上最低の人間だと思った。

 だから……。

 だからそんな俺は……。

「もうオレ達の前に現れるな!」

 朦朧とする意識の中でハッキリと聞こえた決別の言葉。

―― 独りでいることが相応しいのかもな。


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