第六十七話「SecondTrigger」

「じゃあよ。……俺が晴香をもらってもいいよな?」

 すぐにあ〜やの言葉が理解できなかった。いきなり現れた外国人に外国語で話しかけら
れた、そんな状況が一番近いだろうか。
 でも、それもほんの数秒のこと。言葉を理解したと同時に全身を痺れとも悪寒ともつか
ぬ何かが駆け抜け、体が小さく震えだす。
―― 何で? どうして? 何故急にそんな事を?
 衝撃的な言葉に頭の中は疑問符だらけになってパニックに陥った。あ〜やが晴香を欲す
るなんて理解できない。理解したくない。
 まるで悪夢だ。
―― まさか本当に悪夢なんじゃ……。
 最後の望みを託してオレは自分の太股を捻り上げてみた。しかし最後の望みは太股から
伝わる痛みによって無情にも打ち砕かれてしまう。
 これは悪夢のような現実なんだと。
「おい。黙ってるってことはOKって事だよな?」
 そこへ更にあ〜やが追い討ちをかけるように言葉を吐く。
―― ずっとやってこないと思っていた。
 気絶したあ〜やを見ながら自らに投げかけた『もし、あ〜やが晴香を欲してきたらどう
するのか?』という問い。オレは再度自らに問いかけた。
―― あ〜やが晴香を欲してた。どう答えればいい?
 考えるまでもない。あのとき最初に思った事が答えだ。
―― そう。あ〜やにだって晴香は渡したくない。
 晴香が好きだから、晴香を愛しているから、晴香と離れたくないから。
 だったらあ〜やの問いに対する答えも決まっている。大きく深呼吸してからオレはあ〜
やを見ると、
「違う。答えはNOだ。あ〜やに晴香は渡さない」
 ハッキリ自分の考えを口にした。
「晴香を愛してるからか?」
「決まってるじゃないか」
「じゃあよ。何で晴香が俺の子供を産みたいって言ったときOKした? あいつの事だから
お前にも言ったんだろ」
 オレは静かに頷いた。刹那、立ち上がりざまにあ〜やが襟首を掴んできた。
「なら答えろ! 何でOKした! 恋人のお前以外の男の子供を産みたいって言ったんだ
ぞ! なぜだ!」
 ぶつけられる怒声。掴まれた襟首が持ち上げられて無理やり立たされる。
「あ〜やがOKするはずがないって思ったからさ。だって、あ〜や言ったよね? 今後ずっ
と晴香を異性とは思わない、家族としか思えないって……だから――」
 最後まで言い切る前に左頬に強い衝撃を受けた。間を置かずして左頬から痛みと熱がじ
わじわ広がり始める。
―― 殴られた……。
 そう理解すると同時にオレは地面に押し倒されていた。

 気が付けば思い切り殴っていた。全力で、微塵の手加減もせずに俺は春賀の顔面を殴り
飛ばし、勢いそのままに地面に押し倒す。
―― この馬鹿野郎はっ。
 出会ってから最大の怒りを俺は春賀に対して感じていた。
 今の発言がどういうことを意味しているのかわかっているのだろうか。晴香が聞いたら
どう思うか理解していたのだろうか。
 いや、わかっていないんだろう。だから考えもなしに口にしたのだ。
 ハルが俺の質問に対しての答え。
 言い換えてみれば、
『心から信頼した者が晴香を求めないと知っていれば晴香はその男に求愛してもいい』
 ということになる。
 それはつまり、
『葦原春賀は本郷晴香を心から愛していない』
 と同義ってことだ。
「くっ!――」
 俺は音が鳴るほど奥歯をかみ締め、痛みを伴うほど襟を掴んでいる手を握り締めた。少
しでも力を緩めれば怒りは爆発し、疲れ果てるまでハルに拳を叩き込むだろう。
 泣いても、謝っても、絶対に止めることもなく……。
―― できればそんな事はしたくはない。
 ハルは心友だ。傷つける対象ではなく守りたい対象なんだ。そう、だからこいつには見
せてほしい。

 そう思ったと同時に……。

「ハル!」

 背後から発せられた晴香の声。

―― 俺の名前は呼ばない、か。
 それでいい。いや、それが普通なんだ。どう見たって俺がハルを襲っている。ハルを案
じるのは当然だ。けど、そんな当然がハルと晴香にはなかった。俺という存在が二人の『当
然』を奪っていたんだ。
―― それなら返すだけだ。
 麻痺した二人だけに強引な方法を使うしかないのが残念だが……。
 襟から手を離した俺は後ろを振り返った。真っ直ぐこっちに向かって駆け寄ってくる晴
香が視界に入る。
 どうしてここへきたのか。だいたい想像はつくがそんな事はどうでもいい。
 こちらにとっては好都合だった。
―― 言葉程度じゃ足りなかった。それなら……。
 やることはひとつ。

 向かってくる晴香に向かって歩き出す。

 瞬く間に俺と晴香の距離はゼロになって。

―― 現実を見せてやるだけだ。

 俺はすれ違いざまに晴香の手を掴み、力ずくで引き寄せた。

「え、え? あ〜ちゃん?」

 混乱する晴香を後ろから、わざとハルに見せつけるようにして抱き締める。

 そして。

「じゃあな、ハル。宣言通りいただいていくぜ」

 言葉よりも現実を。

―― さあ、ハル……見せてくれよ。

最悪な答えを覆すほどの最高の答えってやつを。


←前へ  目次へ  次へ→