第六十五話「嵐の前の嵐」

 テーブルに並べられた刺身、カツ丼、味噌汁、漬物、おでん。あれから何の騒ぎもなく3
人の料理は終わり、こうして並べられている。
―― なんかひとつだけ異端な存在が。
 カツ丼と味噌汁、漬物はひとセットということでわかる。刺身もギリギリの線だろう。
その中におでん。俺は作った主――自信ありげに胸を張っている恵を見た。
「何でおでん?」
「今日は少し冷え込んでおるしのう。『体を温めるならおでんでございます。古今東西、古
よりそうなのでございますよ』と盟子が言うたのじゃ。妾としては鍋焼きうどんにしよう
かと思ったのじゃがうどんを買い忘れてしもうての」
「なるほどな」
 俺は納得した。
―― まあ、美味ければ何でもいいんだけどな。
 それが本音だった。
「不服です」
 隣に座っている棗が料理を眺めながら小さく呟く。声にはありありと怒りが込められて
いた。
「なぜ私を起こさなかったのです?」
 鋭い眼差しが向けられる。
「起こしたよ。そりゃあもう力一杯にな。なのにお前は起きなかったんだ」
「……不服です」
「自業自得だろうに。さて、と。んじゃ、食うか」
 俺は両手を合わせてから箸を手にした。
―― まずは刺身でも。
 口の中に入れたら溶けてしまいそうなトロに箸を伸ばす。
 が、
「ちょっと待った」
 あと少しの所でハルの箸に妨害された。
「何しやがる!」
「あ〜や、オレはさっきから気になってた事があるんだ」
「あ?」
「首のソレはなんだい?」
 ハルは手にしていた箸で俺の首筋の中程を指し示した。
―― 確かそこはさっき棗が噛み付いた場所だな。
 となると歯型でも残ってるんだろう。
「さっき棗にやられた」
 別に隠すことでもないと思って俺は正直に言うと、
「なんですと!?」
「マジ?!」
「なんじゃと!?」
 ハル、晴香、恵の3人が一斉にテーブルを叩いて立ち上がった。
―― な、何だ?噛み付き痕が何だってんだ?!
 3人の顔にありありと浮かぶ怒りの色に俺は慌てた。
「これを私が……そう。少し、満足です」
 3人とはうってかわって、さっきまでの憮然顔はどこへやら。嬉しそうに棗は笑っている。
「いったい首がどうしたってんだよ?!」
「これでご覧になってくださいまし」
 どこからともなく現れた侍女−盟子−が差し出してきた手鏡を受け取り、騒ぎの原因と
なっている首筋を見てみる。
「うが」
 首筋に痕がついていた。何とも色濃く存在感をかもし出している。ただ、それは歯形で
はなかった。唇の形に似た赤い痕。それが、まるで何かの証のように首筋に刻み込まれて
いる。
―― ま、まさかこれは。
 そこで噛み付いていた時に聞こえた『チュー』という音の意味を理解した。
 首に刻み付けられた痕。俗に言う――キスマークだった。
「な、なななな何てモノを付けてくれやがった!」
「付けた記憶はありません」
「寝ぼけたお前が付けたんだ!」
「ならば喜びなさい。私がキスマークを付けたのは彩樹が初めてなのよ」
「喜べるか! くそ〜」
 無駄だとわかっていても俺は手でキスマークを擦った。
「ぬぅ。またしても姉上に先を越されるとは……ええい! 彩樹、妾にもつけさせい!」
 そう言うや抱きつこうとしてきた恵を右手で押さえる。
「くぬぬぬ。なぜじゃ! なぜ姉上にさせて妾にはさせてくれぬ!妾にも付ける権利はあ
るぞ!」
「これ以上付けられてたまるか!」
 ただでさえ目立つ場所に付けられているんだ。もしそんな場所に複数のキスマークがあ
って、それを誰かに見られようものなら……。
『お盛んですね』
 と微笑されたあとで再び商店街から不本意な噂が流されるに違いない。
―― もうこれ以上の辱めは受けたくないぞ!
 だから俺は必死に恵の猛攻に抵抗した。
「ハル、今がチャンスだよ! 今のあ〜ちゃんなら二人同時には防げない」
「どちらかひとりは付けられるね」
 晴香とハルが互いに頷き、俺に向かってニヤリと笑ってみせた。
―― 狩られる獲物の気分だ。
 逃げ道はない。そもそも移動できるのは左右のみで、その左右からはハルと晴香が迫っ
てきている。テーブルの下とも考えたが四つんばいになろうにも恵が邪魔だ。
 となると残された逃げ道はテーブルの上なんだが……。
―― お、俺には料理を蹴散らして逃げるなんてできねえ!
 つまりは逃げ道を完全に失ったというわけであり、このままだと首筋、あるいは体のど
こかにあと3つの烙印が刻み込まれるのも時間の問題というわけだ。
 絶体絶命――そう思ったところで、
「止まりなさい」
 静かに立ち上がった棗が二人に向けて自動拳銃を向けた。
「お、おいおい。何てモノを抜いてんだよ!」
「ではこのまま3人の餌食になっても良いと?」
「いや、それは……嫌だが」
「なら黙って見ていなさい」
 そう言うと棗はハルと晴香を交互に見やった。
「け、拳銃使うなんて卑怯じゃん!ここは正々堂々素手ってもんでしょう!」
「晴香に同意だね。君は卑怯だ」
「卑怯で結構。彩樹をあなた方の魔の手から救うためなら鬼にでもなりましょう。さあ、
どうします? 銃を恐れず彩樹を襲いますか?それとも諦めて食事にしますか? 私はど
ちらでも構いません」
 銃口を向けている人間とは思えないほど爽やかな笑みを浮かべつつ棗が言う。
 睨み合う3人。張り詰めた空気が漂い始める。暴れていた恵も動きを止めて成り行きを
見守っていた。と、二人は急にテーブルへと手を伸ばした。
「ああ!」
 取り上げられた俺の分のカツ丼。続けて刺身が、味噌汁が、終いには漬物まで取り上げ
られてしまう。
「ふ〜んだ。そっちがそうならこっちはこうしてやるから」
「あ〜やは夕食抜き」
 手にした夕食を高々と掲げながら二人は同時に舌を出した。
 さらには、
「それもそうじゃの。妾の愛を受け入れぬ彩樹などに夕食など不要じゃ」
 二人を真似て恵が残っていたおでんを俺から取り上げてしまった。
 ぐぅ。飯をよこせと腹がなった。
―― 嗚呼、久しぶりの美味い飯が……。
 小さな羽根を羽ばたかせて遠ざかっていく。俺はその場に膝を着いて項垂れた。
「安心なさい。食事なら私が作ります」
 項垂れる俺の肩に手を置き、優しい声色で棗はそう言った。
「……マジですか?」
「この私が嘘を言うとでも?世界に冠たる法光院の姓を名乗るこの私が嘘を言うとでも思
っているというの?」
「……何かその言い回し久しぶりに聞いた気がするな」
「私も久しぶりに口にした気がします」
 俺と棗は互いに見合う。自然と笑いがこみ上げてきて、それは棗も同じだったらしく一
緒に笑みを漏らす。
「んじゃ。頼む」
 小さく頷いてから俺は言うと、
「なんですと!?」
「マジ!?」
「なんじゃと!?」
 また同じ台詞で3人が叫ぶ。
「あ〜や酷し! オレが、オレが折角作った料理を食べないあ〜やは酷し!」
 カツ丼片手に拳を握りしめてハルが、
「そうだよ! ウチの超弩級の『愛』が詰まったこのみそ汁を! 5つ星レストランのコ
ックさえ食べさせてほしいと懇願してくるみそ汁を飲まないなんて……あ〜ちゃん、見損
なったよ!」
 湯気立つみそ汁を高々と掲げながら晴香が、
「食べたら笑顔でおいしいと言うよう愛情を込めて全力で作ったこのおでんを食べぬと? 
妾の努力を、注ぎ込んだ愛を拒否すると? そ、そのような事は神が許しても妾は許さぬ! 
食うのじゃ!」
 おでんがギッシリ詰まったどんぶりを差し出しながら恵が一斉に叫ぶ。
―― う、うるせえ。
 たまらず俺は耳を塞いだ。それを不服に思ったらしく3人の叫びは止まらない。という
か更にうるさくなった。このまま叫び続けられるのかと辟易してきた頃……。
 パ――ーン。
 部屋に轟く一発の銃声と、
「黙りなさい」
 凛とした棗の声が3人の叫びを止めた。
「貴方達に彩樹を非難する権利はありません。初めに料理を食べさせないと言ったのは貴
方達でしょう?」
 棗の指摘に3人は口々に呻く。
「だというのに非は全て彩樹にあるような言葉ばかり。そのような輩に彩樹へ料理を出す
資格はありません! 貴方達の『愛』など紛い物です!」
「ぐぁ〜ん」
 とは晴香。
「不覚。何も言い返せないね」
 とはハル。
「くぅ。妾の愛が紛い物? いや、違う。ただ妾は……ブツブツ」
 とは恵。
 誰も反論できない。三者三様の項垂れ方をした。
 勝者――棗の瞬間だった。
「ふっ。自らの愚かさを悔いることです」
 勝ち誇った顔でそう言うと、柔らかい笑みを浮かべて俺を見た。
「リクエストを受け付けます。ただし下手物料理や私の知らない物は却下です」
「んじゃ、取り上げられた物と同じヤツで」
「それは私に対する挑戦と受け取っていいのかしら?」
「食べ比べるから頑張れよ」
 そのとおりだと言わんばかりに俺は笑ってみせた。
「いいでしょう。私が作った料理以外食べられなくしてあげます」
 そう言い残して棗は台所へと向かった。

 それから1時間後にカツ丼、みそ汁、おでんが俺の前に並んだ。
 ハルが作ったカツ丼、晴香が作ったみそ汁、恵が作ったおでんとそれぞれ食べ比べる。
 食べ比べた結果は……。
―― や、やるな。
 3対0で棗の勝利。
―― 前に食べたときよりも遥かに上達してやがる。
 もしこれを毎日食べられたらいいと思う。けれども正直にそれを言うと調子に乗るので
言ってやらない。
「強情ね」
 そんな俺に向かって棗がポツリと漏らすのを聞き逃さなかった。

 そして、食事を終えてそろそろ寝ようかという雰囲気になった頃……。
「ハル。話があるからちょっとこい」
 そっとハルに耳打ちしてから部屋を出た。
「彩樹。どこへ行くというの?」
「ちょっと男同士で話し合いだ。附いてくるなよ。あとメイド女もな」
 そう釘を刺して俺はそのまま外へ出る。
「どこへ行くんだい?」
「公園だ」
 そこでハルに気づかせてやるつもりだった。

 自分がどれだけ晴香への独占欲があるのかということを。

―― それといい加減に『俺離れ』させねえとな。

さて、久しぶりに腕がなるな。


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