第六十三話「彩樹と晴香」

「ウチにあ〜ちゃんの子供産ませてみない?」
 ニッコリと晴香は微笑む。それに応えて俺も同じように微笑んでやった。
「あ、もしかしてOK?」
「ははははははは。そ〜んな馬鹿げた思考をしたのはこの頭かぁ〜?」
 木魚を叩く気分で晴香の頭に何度も手刀を叩き込む。
「いたたたた。な、何で叩くの? ただ子供産ませてみないって訊いただけじゃん」
「ははははははは。そ〜んな馬鹿げた言葉を吐いたのはこの口かぁ〜?」
 無造作に両頬を引っ掴んで上下左右斜めへとこねくり回す。
「いは、いはいほは〜はん〜。やめへっへ」
 そんな事を言いながらも微妙に笑顔なのがムカついて、俺はさらにこねくり回す速度を
上げた。
「あいはははははは」
 そして、トドメに力の限り両頬を左右に引き伸ばし、離すと同時に両頬を挟み込むよう
にして引っ叩く。
 パチン、と甲高い音が店内に響いた。
「あ〜ちゃんがイジメた……」
 テーブルに突っ伏した晴香が両頬を摩りながら小声で呟く。
「お前が俺を怒らせるような事をぬかすからだ! そういう事は恋人のハルに言えってん
だ、ハルに!」
 力の限り叫び、まだ残っていたオレンジジュースを小さくなった氷ごと一気に飲み干す。
―― このバカは何を考えてんだ。
 苛々が収まらない。
―― しっかし、ハルのヤツはどう答えたんだ?
 晴香の事だからハルには前もって話しているのは間違いない。で、それを踏まえた上で
俺にあんな事を話したってことは……。
―― ハルが了承したってことだ……よな。
 普通なら恋人が『他の男の子供を産みたい』なんて言えば激怒して止めさせるか、はた
またその場で二人の関係は破局するだろう。
 が、ハルの事だからきっとこう言ったに違いない。
『あ〜やならいいよ』
 と。
―― ったく。独占欲ありまくりの癖に俺が相手だと何でも譲る癖はまだ治っちゃいない
のか。
 ある意味歪んだ考えをもっている心友を思い、自然とため息が口から漏れた。
―― そこんところ、帰ったら話し合うか。
 そう考え至った所で、
「で、んな事を口走った理由は何だ?」
 俺は未だに突っ伏したままの晴香に問いかけた。
「ん〜最後のカケと確認、かな」
「カケと……確認?」
「そ。カケってのは……まあ、予想できてると思うけどあ〜ちゃんがまだウチにホの字だ
ったらゲッツしてやる!ってカケ」
「それはない。あんときの答えが全てだ」
 最初に出された水を一口してから俺は答えた。

 あんとき……そう、2年前の夏に俺は晴香に告白されたことがあった。

 その頃、まだ晴香を『家族(兄妹)』ではなく『異性(女)』として見ていた俺には衝撃的
な出来事で思わず受け入れてしまった。
 で、いきなりその夜に『初めて』を経験することになったんだが……。
「………」
 目の当たりにする晴香の一糸まとわぬ姿。
 普通なら一気に鼓動が高まり、緊張したんだろうが……俺の場合は、冷めた。
―― ああ、そういうことか。
 そこで俺は自分にとって晴香がどんな存在だったか理解したんだ。

 晴香の事は好きで、愛していた。

 けど、その感情は『異性』としてじゃなくて、『家族』としてだったんだ、と。

 皮肉にも愛を確かめようとして、醒めたんだ。

 それを告白したら、やっぱりというか普通なんだろうけど泣かれた。
 それから。
「あ〜ちゃんのバカ!」
 その言葉を一週間ほど言われ続けた
 朝、昼、晩。細かく言えばモーニングコールから始まり、登校中、授業中、休み時間、
トイレ中、昼休み、下校中、夜中3時までの文句電話……地獄だった。
 罪悪感とそれから来るストレスと睡眠不足、その他諸々からくる過労で2週間ほど入院
した。その後、晴香はハルを好きになり、元より晴香を好き以上に想っていたハルは紆余
曲折はあったものの、1年前に『俺の作戦』でめでたくゴールインした。
 俺は心から二人を祝福した。
 だから、俺が晴香に対して『異性』だと思っていた『気持ち』は一片たりとも残ってい
ないんだ。
「そっか……そっかそっかそっか! ングング……ぷはっ! そうだよね!」
 顔を上げた晴香は残っていたクリームソーダを一気に飲み干すと、コップが壊れるんじ
ゃないかって勢いでテーブルに置いた。
「うおっ!?」
 そのけたたましい音と晴香の迫力に思わず俺は引いてしまう。
『何の騒ぎかしら?』
『きっとアレですわよ。修・羅・場。若いっていいわね』
 なんて会話が耳に届いたので周囲を見渡してみると、店内の全ての目が俺と晴香に向け
られていた。
―― うあ。し、視線が痛ぇ。
 できることなら金をテーブルに叩きつけて逃げたかった。逃げて誰もいない場所で晴香
を傷つけた罪悪感に苛まれるほうがよっぽどマシだ。
 しかし、ここで決着をつける為にも逃げるわけにはいかない。じっと次の言葉を待つ。
重い沈黙。俺はもちろん周囲の誰もが晴香の行動を待ち続けていると……。
「だよねだよねそ〜だよね! もうウチなんて眼中にないよね! そりゃそうだ! あは
はははははは!」
 つい今しがたの迫力はどこへやら。いきなりテーブルを叩いて笑い出した。
―― は、はい?
 てっきり怒るか泣くかするかと思っていたので拍子抜けしてしまう。
「あ、もしかして怒るとか泣くとか思った?」
 俺は訳もわからないまま2度ほど頷いた。
「あははははは。もう無駄だって9割9分9厘ほど諦めてたから怒ったりも泣いたりもし
ないって!」
 言いながらバシバシ肩を叩いてくる。妙に力が入っていて痛い。
「ほら、さっき言ったじゃん。最後のカケと"確認"だって」
「……そういや言ってたっけな」
 過去を思い出した所為かすっかり忘れていた。
「で、確認ってのは何だよ?」
 問いつつ、コップを口へ持っていく。
「あ〜ちゃんって棗ちゃんに"ホ"の字でしょ。っていうか愛しちゃってるでしょ!」
 ビシィっと人差し指を俺に向けて晴香は叫んだ。
 そのとき、ちょうど水を口に含んでいた俺は驚きのあまりに……。
 ブーーーーーーーッ!!!
 お約束にも晴香の顔面に毒霧よろしくで水を噴出してしまう。
「あ」
 しまったと思うがすでに遅い。
 ポタポタと髪や顎から滴り落ちる雫。向けられる晴香の半眼。突き刺さる周囲の視線。
―― だ、ダメだ。怖くて耐えられねえ。
 視線に耐えられなくなった俺はテーブルに顔を突っ伏した。
 と、間をおかずして誰かが俺の肩に手を置いた。
―― マスターか?
 店内にいる人間で同情してくれそうなのはあの人しかいない。普段は『我、何者にも関
せず』みたいに黙々とグラスを拭いているが、そういう人こそいざって時に助けてくれる
ものだ。
「マスター!」
 嬉しくなって、つい手を取って顔を上げた俺は、
「あが」
 自らの大きな勘違いに気づいて呆然となった。
 そう、手の主はマスターなんかじゃんかった。何せマスターはいつもと変わらずに『我、
何者にも関せず』といった感じで黙々とグラスを拭いていたのだ。
 では手の主は誰なのか。
 それは――そいつは金髪のポニーテルで碧眼の騒音娘。
「オウ、手をニギられてロディちょっとマイッチングだヨ! ナニか? ジョハルじゃな
くてロディに子供産ませてクレルか?アハハハハハ!」
 手の主であるロディが大声で笑う。同時に周囲からクスクス笑い声が発せられる。俺の
滑稽な姿を見て楽しんでいるんだろう。
「くそ。くそくそくそ〜!何で俺ばっかりこんな目にあうんだ〜〜〜〜!!!」
 立ち上がって俺は店の外へと飛び出した。
―― そうだ。このまま俺を知らない場所へ逃げよう。
 もうここじゃロリコンという恥を一生かき続けて生きていくしかない。だったら平和で
のどかな生活を送れる場所へ……。
「俺は逃げるんだ〜〜〜〜〜ぁ!」
 羞恥を捨てて叫んでから、俺は来た道を戻るために体を向けた――そこで。
 ようやくそれが視界に入った。
―― メイド女と………人力車?!
 そして、人力車に乗っている棗の姿。
 距離にして3メートル。
 驚いて動けなかった俺はメイド女の弾丸のような蹴りを顎に見舞われ――宙を待った。
「失礼。メイドは急には止まれません」
 意識がなくなる寸前に聞こえてきたのは、喜びの入り混じったメイド女の声だった。

ぜってぇワザとだ。


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