第六十一話「虹の橋商店街にて―其の2―」

 第三の事件――魚屋のご主人、激しく誤解して襲いかかって来るの巻。

 八百屋を後にした俺は少し離れた所にある魚屋に訪れた。
「あ〜ちゃんとの3ヶ月ぶり再会記念でお刺身買おう」
 と晴香が言い出したためだ。
―― 刺身か。3ヶ月ぶりだな。
 口内に刺身の味が広がり、思わず涎がこぼれ落ちそうになった。
「柾さ〜ん! 美味しいお刺身く〜ださ〜いな〜」
 妙に明るい声で晴香が店の奥へ呼びかけると、
「ん? おう。ハルっちにあ〜坊じゃねえか」
 頬に傷のあるいかにも『そっちの人』な人物が出てきた。
 魚屋の主人『柾』さんだ。以前は本当に『そっちの人』だったらしいのだが、引退して
今は魚屋を営んでいるらしい。
 最初は信じちゃいなかったが、時折来る『本物』が『兄貴』なんて呼ぶのを聞いてから
信じることにした。
「柾さん、ちわ〜。お刺身5人前よろしく」
「刺身5人前だと? ハルっちが刺身なんて珍しいな。何かめでてぇ事でもあった……
ん? そこの嬢ちゃんは何だ?」
 柾さんの目が俺の手を握ったまま店内をキョロキョロ見ている恵に向けられた。
―― あ、何か寒気が。
 まるでこの後に起こるであろう惨劇を体が勝手に予知したかのようだ。そして、それは
現実になろうとしていた。
「そういや、さっき3丁目の奥さんが買い物に来たとき妙な事を言っていたんだ。あ〜坊
とハルっちに子供ができたってよ。そんな根の葉もねえ噂なんざ信じちゃいなかったけど
よ、けどだ……ひとつ聞きてぇ。正直に答えやがれよ。もしかしてそのお嬢ちゃんがそう
だってんじゃあねえよな?」
 柾さんの額には怒っていますと主張せんばかりに血管が浮いていた。よく見るとピクピ
ク痙攣している。
―― 始めっから疑っているじゃないですか!?
 そりゃあ疑うような材料である恵がいるんだから仕方がないといえば仕方がない。とは
いえ常識を考えたら8歳の子供なんざいるはずがない。
―― そうだ。ここは落ち着いて説明して誤解を解こう。
 そう決めて俺が口を開こうとする前に、
「あ、柾さん。お祝いなんで鯛ももらい『鯛』なんちゃったりして!」
 妙に寒い、それでいて状況をさらに悪化させる言葉を晴香が吐く。
「オ〜ケ〜オ〜ケ〜。ちっと待ってやがれよ」
 そう言うや店奥に引っ込む。が、すぐに切れ味の良さそうな輝きを放つ包丁を両手に戻
ってきた。
―― それで何をさばくおつもりですか?
 考えるまでもない。柾さんの視線は俺に向いている。包丁の切っ先も俺の胸に向けられ
ていた。
「なあ、あ〜坊。おれぁ昨日までオマエを友情に厚い良い奴だって思っていたんだぜ。一
目置いていたんだぜ。それが何だ? 親友のカカアを奪い、あまつさえ子供だと? お天
道様が許してもこの柾様は許しぁしねえ! そこに寝ろ!あ〜坊の活け作りにしたやるか
らよぉ!」
 叫びながら柾さんは天を仰いだ。
――このままここにいたら死ぬ!
 慌てて恵を小脇に抱えると、踵を返して逃げた。
「またんかぁぁぁぁぁぁぁごらぁぁぁぁあ!」
 背後からナマハゲの如く柾さんが追いかけてくる。
 と、
「あの者も妾を子供扱いしおって。……許せぬ。盟子!」
 爪を噛んでいた恵が不意に叫んだ……直後、
「げはぁぁぁあ!」
 柾さんの悲鳴が背後から聞こえてきた。
「何だ?」
 足を止めて振り返って見る。
「姫様、ご命令通りに不届き者を成敗いたしましてございます」
 ニコニコと柔和な笑みを浮かべたくの――恵の侍女である盟子――が柾さんの頭を踏み
つけながら立っていた。よくよく見ると微妙に足先が頭を地面にこすり付けている。
―― 意外とエグいヤツなんだな。
 さすがはメイド女と同存在だと思った。
「てんめぇ〜〜ぇ。オレ様が誰だか知ってんのか、こるぁ! 泣く子も黙る『切り裂き柾』
様だ――ぐえっ!」
「お黙りなさい。まったく近頃の殿方は騒がしくていけませんね。『切り裂きの柾』? ふ
ふふふ。そんな雑魚で矮小で知る価値もない存在を存じ上げるはずありませんでしょう」
 つま先が激しく柾さんの頬を抉る。そんな事をしつつも盟子はニコニコ柔和な笑みを絶
やしていない。明日は我が身。そうなりたくないと思わず合掌。
「盟子、よくやったぞ。これ彩樹。いつまでも抱えておるでない」
「お、おお」
 言われて俺は抱えていた恵を地面に下ろした。
「姫様、この矮小なる存在はいかがいたせばようございましょうか?」
「ほむ。本来なら市中引き回しの上に獄門なのじゃが……どうしたものかのう」
 柾さんが声にならない悲鳴を上げた。よほど恵が邪悪な顔をしたらしい。
―― このままじゃ柾さんがヤバイな。
 そう思い、
「あ〜ちっといいか?」
 助ける為に俺は恵に話しかけた。
「何じゃ?」
「一応その人は俺の知り合いだ」
「ほむ。じゃから見逃せというのか?」
 俺は頷いた。
「……まあよかろう。おい、お主」
「は、はい!」
「今後一切の暴力行為をするでない」
「わ、わかりやした。切り裂きの柾、ここに誓いやす」
「うむ。じゃが他者を守る為、己を守るため、大切なモノを守る為ならば許してやる」
「はい」
「うむん。行ってよいぞ。店でお主を待っているものがおるであろう」
 恵の言葉を受けて盟子が柾さんの顔から足を退けた。
「し、失礼しやす」
「うむ。ああ、ちと待つがよい」
「は、はははははい!」
 呼び止められた柾さんがぴん、と背筋を伸ばした。
「ひとつ言い忘れておった。妾は彩樹とあの娘の子ではない」
 コホン、とひとつ咳払い。
「妾は彩樹と生涯と共にする者じゃ! つまりお主達の言葉で言えば婚約者というわけじ
ゃ! 覚えておくがよい!」
 商店街中に響き渡るような大声で恵が叫ぶ。
「記憶に刻み込んでおきやす」
「行け」
「失礼しやす!!」
 脱兎。まさにその言葉通りに柾さんは店へと走って行ってしまった。
―― あの柾さんをいとも簡単に……。
 しかも色濃い恐怖まで植え付けるとは……。
「さすが小さくても法光院ってか」
「ふっ。褒めるでない」
 両腰に手を当てて恵が胸を張る。
―― いや、全然褒めてないぞ。
 口に出すと後が怖いので心の中でツッコム。
 と、
「ねえ、柾さんどうしたの? 恐怖の大王に出会ったみたいな顔で走ってっちゃったけど」
 小さなビニール袋を手に晴香が追いついてきた。
「恐怖の大王、じゃなくて恐怖のプリンセスだ」
「何それ? ん〜〜ま、いっか。あ、はいこれ」
 袋を渡される。
「何だこりゃ?」
「何ってお刺身に決まってんじゃん。柾さんがいつまで経っても戻ってこないから自分で
さばいちゃった」
「いいのかよ」
「柾さんだから笑って許してくれるよ。ほら、次いこ、次!」
 俺の腕を掴んで晴香が先を歩く。
「こらぁ! 彩樹に触れるでない!」
 背後から聞こえる恵の怒声。
 そして、俺達を見る無数の視線。
―― さっきの一部始終見られたよな。聞かれたよな。
 奥様連中がコソコソこっちを見ているのから察するに間違いなく見られ、聞かれていた
だろう。つうかあの大声が聞こえないはずがない。
―― 嗚呼、明日には『室峰彩樹幼女を誑かす』だの『爆!実は室峰彩樹がロリコンだっ
た!』だの『祝ご結婚? お相手は8歳児!』なんて噂が広がっているに違いない。
 激しく泣きたくなった。

 嗚呼、どんどん妙な噂が広まっていく……。


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