第五十九話「妾も女なのじゃよ」

 少し時は遡り、棗が目を覚ます45分前……。

 妙な気怠さを感じつつ目を開けると、視界いっぱいに恵の顔が出迎えてくれた。
「ようやく目を覚ましたか」
 どことなく大人びた表情。小さな、けれども柔らかい手が俺の頬を撫でる。ひんやりと
した感触が気持ちよかった。
「どれくらい寝てたんだ?」
 問いかけながら身を起こそうとしたが、
「まだ寝てるがよい。急に起きあがると体に毒じゃぞ」
 子供とは思えない力に押し戻され、後頭部がやわかたい感触に包まれた。
―― このシチュエーション……。
 恵の膝枕。堂楽園遊園地での事を思い出させた。
 確か少ししてから棗が現れて、そのすぐ後に壮絶な姉妹喧嘩になったんだ。
―― ま、まさかまた同じ事にならねえだろうな。
 ありえない話しではないだけに慌てて起きあがろうとするも、再び押し戻されてしまう。
「案ずるでない。姉上は未だ気を失ったままじゃ。それに姉上のいる部屋からここまでは
離れておるし、足音で来るのもわかるようになっておる。以前のような事にはなりはせぬ
よ」
「ホントだろうな?」
「妾は同じ失敗を二度は繰り返さぬ。それにの……」
 また恵の手が頬を撫でる。
「ここずっとお主を姉上に取られておった。こんな時でなければ妾はお主とじっくり話す
ことも触れ合うこともできぬ」
「あいつがいようがいまいが話してるし、触ってきてんじゃねえか」
 時には子犬、子猫のように可愛らしく。時にはすっぽんの如くしつこく。
―― 最近は子猫状態だったな。
 座っていたら急に膝の上に座ってきたり、後ろから飛びついてきたりと。
「違うのじゃよ。姉上の前ではお主の妹といった感じで接しておった。余計な刺激を姉上
に与えぬようにな」
 黙って恵の話を聞く。
「じゃが今は姉上はいない。すぐに来ることもない。なれば妾がすることはただひとつ」
 顔を胸に抱き寄せられる。
「こうして女として彩樹に接するのみ」
 とくんとくんと耳に届く恵の鼓動。
―― ま、これくらいならいいか。
 別段害はないだろうと俺は恵のしたいままにさせてやることにした。
「のう、彩樹」
「ん?」
「接吻してもよいか?」
「………」
 数秒の思考停止。
―― イマコノコハナントイイマシタカ?
 活動が鈍った脳味噌へ問いかける。問いはゆっくりと思考回路に染み渡り、内容を分析、
その結果から導き出された答えを口から吐き出す。
「はんへふほ!?」
 口が服に押しつけられているので声がこもった。
「ほむ。そこまで驚くことかのう?」
「ははひまへは!」
 ロリコン野郎だって驚きのあまりに放心するだろう。
―― まあ、その後で狂喜乱舞するだろうがな。
 しかし、俺はロリコン野郎じゃないから狂気乱舞しない。喜びなんかよりも困惑の方が
断然強かった。嬉しいか否かという観点なら……まあ、嬉しいと答えよう。好意を向けら
れるのは別に嫌じゃない。
―― だがキスだぞ? しかも8歳のお子様にだぞ?
 しかも相手は自ら俺の『婚約者』などと公言しているのだ。ほっぺに『チュ』なんて可
愛いものにはなりそうにない。
「ほひはへずほほへへっふんはんはふふふほひは?」
「……何を言っておるのかわからぬぞ」
「とりあえず訊いておくが接吻ってえのはどこにするつもりだ?」
 胸から解放された俺は再度質問した。
―― 頼むから頬だと頬だと言ってくれ! 頬なら何度でもさせてやるから!
 表情には出さないも心の中では必死に懇願する……が、
「決縁者と接吻をする場所など決まっておろう。唇じゃ」
 心の中の懇願は無常にも却下された。
「……じゃ、そゆことで」
 片手を挙げてから身を起こした俺は四つんばいのままいそいそと部屋の外へ向かう。
「どこへ行くつもりじゃ?」
 いつもの可愛らしい声。けれども怒りの混じった冷えた声。できるだけ刺激しないよう
ゆっくりと振り返ってみる。
「まさか妾の接吻が嫌だとでも言うのではなかろうのう?」
 恵は笑っていた。それはもう爽やかな笑みを。でも、声は微塵も笑ってはいなかった。
―― 唇だけは嫌なんですが。
 言いたくても言えない。言えば死ぬような気がした。
「何故黙っておる? ……やはり妾では嫌なのか」
 笑顔が一変してくしゃくしゃになり、目元に涙が浮かぶ。
―― うぐ。
 良心の呵責が刃となって胸を貫く。思わず俺は胸を押さえた。
「確かに妾は幼い。8歳という幼子に対して恋愛感情を、劣情を抱けなど言う方が無理と
いうことも理解できる」
―― いや、8歳だから恋愛感情や劣情を抱くヤツってのもいるにはいるぞ。
 と、何故か冷静に心の中でツッコンでしまう。
「じゃがな……幼くとも妾は女なのじゃよ」
 両頬に恵が手を添えてきた。
「好きな男と……愛しておる男と接吻をしたいと思うのじゃ」
 目を閉じて顔を寄せてくる。このままでいれば確実に俺の唇と恵の唇は重なってしまう。
―― 逃げねば。
 恵には悪いがロリコンの道に入るつもりはなかった。渾身の力を持って顔を引く。
「ゴウリキ!」
 同時に恵が叫び、俺の体は大きなふたつの手によってがっちり固定されてしまった。
―― ゴウリキ〜〜〜。
 ここずっと姿を現さないと思ったらこんな時に……。
 逃げられない。顔を背けることもできない。恵の唇がどんどん迫ってくる。
―― 嗚呼、明日から俺はロリコンとして後ろ指さされるのか。
 そう思ったその時だった。
「はぁ〜い。そこまで」
 俺と恵の唇の間に差し出された手がキスを阻んだ。
「お、お主……」
 忌々しげに恵が手の主を見る。
「晴香」
 晴香がにこやかな笑みを浮かべながら立っていた。
「もしかして余計なお世話だった?」
「いや助か――」
「当たり前じゃ! せっかく彩樹と接吻できるところであったというのに……許せぬ!」
 俺の声を遮って叫ぶと、恵は腰帯に差し込まれていた短刀を取り出した。身を低くして
襲いかかる姿勢になる。
 そんな恵に対して、
「ストーーップ」
 笑顔を浮かべて晴香は右手を突きだした。
「ここで質問しちゃうよ。何でウチは恵ちゃんのキスを妨害したのでしょうか?」
「ふん。どうせお主も彩樹に気がある口じゃろう。じゃから妾の接吻が許せなかった。そ
うであろう!」
「少し正解、けどほとんど不正解。そりゃまあ、あ〜ちゃんがウチ以外の女にキスされる
のは気分は良くないよ。けど、あ〜ちゃんが望んでるなら構わない。……そう、あ〜ちゃ
んが望んでいればね。さて、もう一度質問しちゃおう。あ〜ちゃんは恵ちゃんとのキスを
望んでたかな? ウチとしては拒否していたように思えるんだけど」
「むう……」
「否定できないでしょ? まあ、好きだからキスしたいっていうのは同じ女としてわから
ないでもないんだけどね」
「ならば!」
「協力して見過ごせって? そうしたかったんだけどね。そこの人が押さえてるのを見た
ら止めたくなっちゃって」
 そう言って晴香はゴウリキを見上げた。見上げられたゴウリキは普通の子供が見たら泣
き出しそうな強面のまま晴香を見返す。
「こわっ」
 ぽつりと晴香がもらすと、ゴウリキの顔が一瞬驚き、次に悲しそうな顔になった。
―― 気にしてたのか。
 少し同情しつつ、
「んじゃあ、もしゴウリキが俺を押さえてなかったらどうしたんだよ?」
 それよりも気になった部分に関して問いかける。
「もち、そっと覗いてニヤニヤしてたに決まってんじゃん」
 晴香はケラケラと笑った後にウインクしてきた。
―― こいつは……。
 どっちでも助けろと思った。
「さてさて、んじゃ行こっか」
 何の前置きもなくそう言うと、俺の腕を掴んできた。
「は? どこへだよ」
「商店街。まっさかあ〜ちゃん来るとは思ってなくってさ。冷蔵庫にハルとウチの分しか
材料なかったんだ。ほら、久しぶりにウチの料理食べてもらいたいじゃないの」
「荷物持ちか」
「そ。荷物持ち」
「ハルにやらせろよ」
「ハルは棗ちゃんを任せてるし、何か銭湯の方でゴタゴタ起きた場合に備えていないとい
けないから」
「なるほどな」
 確かに客がいるのに店をあけるってのは最低な店だ。
「念のために訊くが、棗は服着てるんだろな?」
「おんやぁ。なに、ハルが裸の棗ちゃんに襲いかかると思って心配ぃ?」
 悪巧みを思いついた越後屋よろしく耳打ちしてくる。
「べ、別にそんなんじゃねえよ! ただ風邪をひかれると後々厄介になるからだ!!」
「はいはいはいはい。お姉さんはよ〜くわかってるから安心してよ」
 頭をぽんぽん叩かれる。駄々を宥められている子供のような気分になった。
「大丈夫。ハルはウチの裸以外に興味ないから」
「……言われてみればそうか」
 過去、銭湯内でした春賀との会話を思い出す。
『お前さ、番台に座ってたら女湯の方が気にならないか?』
『なんで?』
『いや、女の裸がいっぱいでだよ』
『晴香以外の裸には興味ないし。でも、あ〜やの裸には興味あ――』
 その後に殴り飛ばしたのは言うまでもないだろう。
「それにちゃんと服はウチが着せたから安心してよ。ちなみにブラとパンツはウチの勝負
品。迫られたらあ〜ちゃんもイ・チ・コ・ロ♪ きゃ〜♪」
 奇声を上げたかと思うと晴香は頬をつついてくる。
「あ〜はいはいそうですか」
「つまんない反応だな〜。ま、あ〜ちゃんらしいっか。で、買い物の方はOK?NO?」
「OKだ。風呂代代わりにやってやるよ」
「そうこなくっちゃね。あ、恵ちゃんも一緒に行く?」
 俺から離れた晴香は俯いている恵の前でしゃがみこんだ。返答はない。
「行かないならウチがあ〜ちゃん独占しちゃうよ?」
「そのような……」
 呟いてから恵は顔を上げると、
「そのような真似を妾がさせると思うたのか! もちろん共に行く! 行くぞ、彩樹!」
 俺の腕を掴んで玄関へ。
「あ、待ってよ! ウチも一緒に行くんだから〜!」
 晴香の声が聞こえて来るも恵は微塵も待つ様子もなく前に進む。
 で、すぐに玄関に到着。
 靴を履いて外に出たところで恵は立ち止まった。
「彩樹」
「あん?」
「妾はまだお主を諦めてはおらぬぞ。いずれ唇に接吻してやるから心しておけ」
 宣戦布告をしながら俺に向かって恵は指差してきた。
「あ、あはははははは」
 勝手に口から笑い声が出てしまう。
―― ホント、その一途さというか頑固さに負けそうだよ

あと数センチであったというのに!


←前へ  目次へ  次へ→