第五十八話「君になら……」
 幸せだった。
 彩樹に触れ、彩樹の体温を感じて、彩樹の鼓動を感じることが。
―― 今日の夜から彩樹を抱き枕にしましょう。
 拒否するような事があれば玲子をけしかけてでも成し遂げようと心に決めた。
 そこでふと思う。
―― 今、私はどこで何をしているのだろう?
 と。
 なぜかサウナの中とは思えないほど涼しい。そよそよと頬を撫でる風が心地よかった。
記憶を探る。確か彩樹の腕に触れて、手を握りしめ、頬を肩に預けて……。
「幸せに包まれながら気絶してしまったのね」
「その通り。ようやくお目覚めですか。眠り姫さん」
 どことなく皮肉の入り交じった声。
―― 彩樹じゃない。
 その正体を確かめるべく目を開けて声の主を見た。
「確か貴方は……」
「芦原春賀。あ〜やの幼なじみさ。春賀って呼んでくれて構わない」
 そう言うと、芦原春賀は手にしていたうちわを置いて氷水の入ったコップを差し出して
きた。
「飲むといい。もし辛いなら飲ませてあげるけど、どうする?」
「結構です。貴方の手助けなんて必要ありません」
 身を起こしてから半ば奪うようにしてコップを取って中身を飲み干す。十分に冷えた水
が熱くなっていた体をすぅ〜と冷やしてくれた。
 ホッと一息つく。
「貴方のっていうことはあ〜やの手助けなら必要としたわけだ」
「貴方に教える理由はありません。とりあえず、水に関しては感謝を」
 コップを畳に置きつつ私は現状を把握することにした。
 まず部屋を見渡す。どうやら本郷晴香の部屋らしい。広さは8畳半というところ。庶民
の部屋にしてはまあまあ広いほうだろう。その中央に敷かれた薄い布団。私はそこに寝か
されていた。
 次に衣服。
 サウナで倒れたはずの私は来た時と同様の服を身につけていた。ということは誰かが着
替えさせたということになる。
 まさかと思い、
「安心するといい。君を着替えさせたのは晴香だよ」
 問いかけるよりも早く芦原春賀は答えた。
「そう。それならいいの。……ところで彩樹はどこにいるの?」
 もう一度部屋を見渡す。
 どこにも彩樹の姿はなかった。耳をすませてみるが彩樹の声を聞くことはできない。つ
まり、近くにはいないということだ。同様に恵と本郷晴香の姿もなかった。
―― まさか恵やあの女と今でも。
 慌てて私はサウナ室へ向かおうと立ち上がったが、足腰に力が入らず無様に布団に倒れ
てしまう。
「おやおや、元気だね。あ〜やとあの二人はサウナにはいないから心配する必要ないよ。
夕食の材料がないから買いに行ってもらってる」
 言いながら芦原春賀の手が私の方へ伸びてきた。布団へ戻そうというのだろう。
「私に触れるな!」
 考えるよりも先に叫び、私は芦原春賀を睨みつけていた。触る寸前で彼の手が止まる。
 静寂。
 春賀は手を差し伸べた格好のまま私をじっと見ている。
「それ以上近づけば……殺します!」
 もう一度叫ぶ。その言葉に嘘はなかった。
―― 彩樹以外の男に触れられるなんて。
 絶対に嫌だった。しばらく春賀は止まっていたが、急に笑みを零すと、
「やれやれ、君はあの時となんら変わってないね」
 差し伸べた手を引いて立ち上がった。
「君は覚えていないだろうけど、オレもあ〜やと同じ幼稚園で同じ組だった。もちろん君
の事も知っていたよ。……あ〜やをオレから奪うかもしれない敵、としてね。確か一度だ
け君を助け起こそうとしたときも今みたいに怒鳴られたっけね」
 空になったコップを手に芦原春賀は冷蔵庫の扉を開ける。
―― 幼稚園のとき……彩樹と一緒にいた?
 幼稚園の頃の記憶から該当する人物を掘り起こしてみて……すぐに思い出した。
『あ〜やからはなれろ!』
『あ〜やはオレのだぞ!』
『オマエばかりズルイぞ!』
『だいじょぶなのか?』
 ぶつけられた言葉。
『貴方に指図される理由はありません!』
『彩樹は私のモノです!』
『私が有する当然の権利です!』
『私に触るな!』
 ぶつけ返した言葉。
―― 芦原春賀があの……。
 過去を思い出した私は自然と彼に対して敵を抱いた。
「そう、貴方があのうるさい『ゴミ』だったの」
「へぇ。オレの事を覚えてたんだ」
「彩樹に関する記憶は全て覚えています。でなければ誰が貴方のようなゴミなど……」
 記憶の片隅に……いや、間違いなく覚えていなかった。私にとって彩樹に関すること以
外はとるに足らないものなのだから。
「はははは。君らしい答えだ」
「それで、その邪魔者は今になってまた私の邪魔をしようというの?」
 私の問いかけに芦原春賀はしっかりと首を横に振ると、
「いいや。逆さ。君にはあ〜やと一緒になってほしいと思ってる。つまり、さっさと結婚
しちゃえってこと」
 予想とは真逆の言葉を口にした。
「過去、それに現在の彩樹に対する態度からは想像もできない発言ね」
「ん〜。まあ、本音を言ってしまえばオレと晴香であ〜やを幸せにしたいからね。けど、
オレ達といるより君といる方があ〜や幸せみたいだったし」
「どうしてそう思ったの?」
「オレと晴香が言い合いしてたとき君はあ〜やは抱きついてたろ? ……そのときのあ〜
やの顔を見たら、悔しいけどその方がいいって思ったんだ」
「彩樹の顔? お、教えてちょうだい! そのとき、……そのときの彩樹はどんな顔をし
ていたの!」
 知りたかった。
 今まで何度か彩樹に密着したことはあったが、どれも彼の表情を見ることはできなかっ
た。いや、見られなかったのだ。彩樹の表情が嫌悪に彩られているかもしれないと思った
から。もしそんな表情を見たら立ち直れなくなってしまうから。
―― 蘭さんには偉そうなこと言ったのに……結局は私も同じ。
 そう、怖かったから。想いを否定されたときの痛みと悲しみを味わうのが怖かったのだ。
でも、目の前にいる芦原春賀は言った。
 私が抱きついたとき……。
『そのときのあ〜やの顔を見たら、悔しいけどその方がいいって思ったんだ』
 その言葉によって芽生えた希望と勇気。
「どんな顔をしていたのか教えなさい!」
 二つを胸にもう一度問いかける。
「言っただろ。『君といる方があ〜や幸せみたいだったし』って」
「具体的にどんな顔をしていたかが重要なの!」
「笑ってたよ」
 小さく息を吐いてから春賀は答えた。
 笑ってたよ。笑ってたよ。笑ってたよ。笑ってたよ。笑ってたよ。
 言葉が頭の中で何度も繰り返される。
―― 笑って……くれていた?
 すぐには信じることができず、
「嘘ではないのね?」
 念のために再度問いかける。
「オレ、嘘嫌い」
「……そう。……貴方をゴミから芦原春賀いち個人として認めます」
「あんがとさん。ああ、でもね……これだけは言っておく。もしあ〜やの心を傷つけるよ
うな真似をしたら――」
 笑みが消え、代わりに向けられた鋭い眼光が私を射抜く。
―― いっかいの高校生にしてはやるようね。
 負けじと私も睨み返す。
「彩樹の心を傷つけるような真似をしたらどうだというのです?」
「君からあ〜やを奪うよ。絶対にね」
「上等です。できるものならやってご覧なさい。けれど、私が彩樹の心を傷つけるなんて
ことはありませんから、そのような事は起こりえませんが」
「この世に絶対なんてないさ。まあ、そうならないことを祈るけどね。ありゃ、オレンジ
ジュース空っぽか」
 再び笑みを浮かべた春賀は冷蔵庫の中からオレンジジュースのパックを掴むとゴミ箱へ
と放り投げた。放物線を描いてパックはゴミ箱に収まる。
「……ま、いっか。さてと、ちょっと番台空けすぎたから戻らないと。君はどうする?」
「もちろん彩樹を迎えに行きます」
 ゆっくりと畳を踏みしめながら立ち上がる。今度は大丈夫だった。
「あっそう。商店街への案内は?」
「不要です。私には優秀なメイドがいますから」
 間を置かずして玲子が傍らに姿を現した。
「みたいだね。ま、頑張ってあ〜やをモノにしてよ」
 驚いた様子も見せずにそう言うと芦原春賀は部屋から出ていった……と思いきや顔だけ
出して、
「あ、そうそう。ひとつだけ言い忘れてた」
「何をかしら?」
「あ〜やを譲る代わりってわけじゃないんだけどさ。君とあ〜やの子供が産まれたら抱か
せてほしい」
「あ、彩樹と……わ、私の……こ…ど…も……?」
 ふと頭の中に彩樹と裸で触れ合っている自分が思い浮かぶ。とたん、顔が茹で上がるよ
うな錯覚をした。実際、間違いなく顔は赤いだろう。
 慌てて頭を振って浮かんだ光景を振り払い、
「わ、わかりました。善処してあげます」
「サンキュ。んじゃ、頑張って」
 そう言い残して芦原春賀は今度こそ行ってしまった。
―― 彩樹との子供……。
 今まで一度も考えたこともなかった。
 ほしいか、ほしくないかと問われれば間違いなくほしいと答える。最愛の人……彩樹の
子供をほしくないはずがない。
 そこでまた裸で彩樹と触れ合う自分がちらつき頭を振った。
―― わ、私としたことが何てはしたない考えを。
 まだ自分には早いのだから考えるなと心に言い聞かせた。
 と、
「お嬢様、室峰彩樹の所在が判明いたしましたがどうなさいますか?」
 玲子に呼びかけられて思わず飛び上がってしまう。
―― 見られていた。
 常に傍にいる彼女なら間違いない。
 玲子は見ていた。芦原春賀の言葉を受けて赤面し、うろたえた私の無様な姿を。
「玲子」
 ひとつ咳払いしてから私は感情を込めずに呼んだ。
「はい。何でございましょうか?」
「今の私の行動を見ていましたね?」
「はい。お嬢様の行動全てを見ておりましたとここに宣言いたします」
 そう言うと玲子は何のつもりか右手を高々と上げる。
「忘れなさい。芦原春賀との会話の全てを忘れることを命じます」
「はい。お嬢様のご命令のままに」
 深々と玲子は頭を下げた。
―― これであのときの私を知るものは芦原春賀のみね。
 念のために彼がひとりになったときにでも口止めする必要がありそうだ。拒否したなら
ば強硬手段で記憶を消すなりしようと思う。
「それは後でもいいことね」
 一言呟いてから私は玄関へ向かう。
 確かに恥を曝される前に口止めするのは重要だ……しかし。
―― 今は彩樹を恵や本郷晴香の誘惑から守ることが重要よ。
 一分でも一秒でも早く彩樹の元へ行かなくてはならない。
「玲子、彩樹のいる場所まで案内なさい。迅速かつ正確に」
「かしこまりました。では銭湯の前でお待ちくださいませ」
 ひとつ会釈して玲子が視界から消えた。
―― さて、何が出てくるのかしらね。
 言われた通りに銭湯前まで来て私は思った。商店街の方へ目を向けると、そこには自動
車進入禁止の標識がある。ルクセインの車を連れてくる事はないだろう。
 自転車。大型バイク。補助席付のバイク。
 私なりに予想してみたのだが……。
「お待たせいたしました」
 予想は見事に裏切られた。いや、玲子の身体能力を考えれば予想の範疇であったかもし
れない。ただひとつ気になった。
―― こんなモノをどこから入手してきたのかしら?
 玲子が運んできた乗り物とは……何とも古風な人力車だった。
「さあ、お乗りください」
 と玲子に促されて私は本来の目的を思い出した。
 そう、今は人力車の出所などという些細な問題に頭を悩ませている時ではないのだ。頷
いて私は人力車に乗り込むと、
「さあ、行きなさい」
 彩樹がいるという商店街の方向を指差した。
「ご命令のままに行かせていただきます!」
 颯爽と人力車が走り始める。

 後日、人力車を引くメイドの話題から商店街が少しだけ賑わったことをここに記してお
く。

忘れていました。そこの貴方も……アノコトは忘れなさい。

忘れなければ強制的に記憶を抹消します。


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