第四十八話「aRescueOperation」

 高々とあがった水柱が体当たりの衝撃を物語っていた。
 あんなものをまともに受けたら……。
―― 人間なんてひとたまりもない。
 絶対に骨の1本や2本、最悪全身の骨が折れているかもしれない。そしてあの巨大な口
で噛まれたりすれば……。鮮血に包まれる棗の姿が脳裏に浮かぶ。
「くそっ! んな事になってたまるか!」
 首を振って最悪の光景を振り払った。
「彩樹! 姉上が……姉上が!」
「わかってる! 今から助けに行くから、泳げないお前は――」
 恵を抱き上げて浜辺に体を向けると、
「浜辺で待って、ろ〜〜〜〜〜!!!!!」
 渾身の力をこめて投げ飛ばした。
 少しして、
「にょは!」
 という悲鳴と激しい水音が聞こえたが気遣う余裕はなかった。
 大きく息を吸い込んで海中に潜る。
―― あれか。
 底まで透き通っているだけあって棗をすぐに見つけることができた。鮮血に包まれてい
ないことから噛まれてはいないらしいが、体当たりの衝撃で気を失っているらしくグッタ
リしている。
―― マズイ。
 はやく海中から引っ張り出さなければ溺れ死ぬのは間違いなかった。
―― 鮫のヤツはどこだ。
 泳ぎを止めずに首をめぐらす。目標はすぐに見つかった。
 棗から少し離れた場所を泳いでいた。距離にして10メートルといったところだろうか。
結構離れているようでも鮫の泳ぐスピードを考えれば近すぎるくらいだろう。
 下手に近づけばこっちまで餌食になりかねない。
―― だからってこのままあいつが死ぬのを見過ごすってのか?
 自らに問い掛ける。
 答えはすぐに、いやすでに決まっていた。
―― ノーだ。
 この状況で棗の奴を見捨てることは俺のプライドが許さなかった。
 確かに相手は水中では驚異だ。しかし、こっちにはゴウリキやメイド女たちがいる。助
かる可能性は高いはずだ。
―― なら、考えるよりも……。
 行動あるのみ。俺は鮫が尾を向けた所を見計らって棗の元へ辿り着いた。
 と、まるでそれを待っていたとばかりに鮫がこちらに向かって転進し、あっという間に
10メートルの距離が0になる。
―― くそっ!
 抱きかかえた棗を守るために背を向ける……直後、
「ごぱっ!?」
 強烈な衝撃が全身を襲った。
 無理やり肺から酸素を吐き出されて視界が泡だらけになったかと思うと、口の中に冷た
い海水が流れ込んでくる。
 とたんに息苦しくなった。間を置かずして2度目の衝撃。右肩に走った鋭い痛みに思わ
ず表情が歪んでしまう。
―― 遊んでやがるのか。
 はたまた満腹だから運動しているのか。
 どちらにしろすぐに食おうという気はないらしい。こっちとしてはチャンスなのだが、
おちょくられているのだと思うと無性に腹が立った。
―― 助かったら絶対にカマボコとフカヒレにして食ってやる!
 心の中でそう誓う。
 そうするにはまず息苦しい今の状況を脱しなけりゃならない。棗だってこのままじゃ確
実に死ぬ。
―― となれば。
 鮫が3度目の攻撃をしようと転進している隙に俺は全速力で海面に出た。
「げほげほげほっ!」
 海水が気管に入るのも構わず息を吸い込みながら、
「こんのっ!!」
 棗を引っ張りあげて状態を見る。
―― くそったれが。
 息をしていなかった。顔や唇の色が一目で危険とわかるほど青白い。状態としては最悪
だった。
―― 早く浜辺に戻って水を吐かせねえと。
 必死に泳ぐ。少しでも、1秒でも早く浜辺に、いや足の届く深さまで行くために俺は必死
に水をかいた。
―― 死なせない。絶対に死なせねえからな!
 こいつには色々と借りがある。それを全て返すまでは絶対に死んでもらっちゃ困るんだ。
「彩樹、横じゃ!」
 恵の声と背後から発せられた水音を聞いた俺は反射的に動き止めて横を振り向き、
「………っ!」
 俺なんかひと呑みできるほど巨大な口、体なんざ軽く噛み千切るであろう鋭い歯と顎が
眼前にある最悪な現実に息をのんだ。
―― 食われる!
 もうダメだと諦めた刹那、人の頭4個分はあるであろう大岩が鮫の横っ面に命中した。
―― ゴウリキか。
 あんな巨大な物を投げることができるのはあいつしかいない。
 岩をぶち当てられた鮫は横倒しになると、派手な水柱をあげながら大岩と共に海中へ沈
む。沈んだ鮫はそのまま俺から離れるように移動した。
「掴まるのじゃ!」
 間を置かずして縄が目の前に放られた。即座に俺はそれを掴む。
「ゴウリキ!!」
「オォォォォォォオ!!」
 ゴウリキが咆吼を上げながら縄を引いた。
―― うおぉぉぉっ!?
 勢いよく縄が引き上げられた結果……俺と棗の体が宙を舞い、けん玉よろしくゴウリキ
の両腕に収まる。初めてお姫様抱っこを経験した瞬間だった。
―― 結構テレ臭い……なんてこと思ってる場合じゃねえ!
 浜辺に下ろされた俺は棗の胸に耳を当てた。まだ微かにだが心臓の鼓動が聞こえてくる。
―― こうなったらやるしかないか。
 一度深呼吸してから気合いを入れるために頬を叩く。
 まずは意識の確認。
「おい! 意識あるか?! あるんだったら憎まれ口のひとつでもたたいてみろ!」
 軽く棗の頬を叩きながら呼びかけるも反応なし。意識はない。
―― 次は……。
 気道確保。気管支を塞いでいる物がないかもチェック……無し。
―― これは人命救助人命救助人命救助だぞ。
 そう自分に言い聞かせながら大きく息を吸い込むと、俺は棗に口づけ、吸い込んだ息を
吹き込んだ。
 続けて心臓マッサージ、人工呼吸、心臓マッサージと何度も繰り返す。
 1回、2回……10回……15回……。
 しかし棗はなかなか水を吐かず、呼吸は止まったまま。
 死。
 最悪の言葉が頭に浮かぶ。
「あ、姉上……」
 恵もそれを感じ取ったのだろう。目元に涙を浮かべていた。
「吐け、吐け吐け吐け吐け吐けってんだよーーーーっ!!」
 なかなか水を吐かない苛立ちが頂点に達し、思わず俺は拳を胸下に叩き込んでしまった。
と、大きく棗の体がしなり、
「ごほっ!」
 口から大量の水を吐き出された。
「ごほごほごほっ!」
 断続的に続く嗚咽。吐き出される水。
―― た、助かった。
 顔に少しずつ赤みがかっていくのを見てホッと安堵しつつ、苦しそうな棗の背をさすっ
てやる。
「おい、自分が誰だかわかるか?」
「あ、当たり前……ごほごほっ……です。この私を誰だと思っているの……ごほっ! 神
すら地面に額を擦りつけて……ごほごほっ……平伏すほどの美貌の持ち主である法光院棗
ががこの世に二人といるはずがないでしょう」
「そこまで大口たたければ大丈夫だな」
 自然と苦笑が漏れてしまう。そんな俺に釣られたのか棗も表情を緩めた。
「姉上〜!」
 ずっと立ちつくしていた恵が棗の胸に飛び込み、堰を切ったかのように泣き出す。よう
やく棗が助かった事を認識したらしい。
「心配かけてごめんなさいね。もう大丈夫よ。ほら、涙を拭きなさい。法光院の姓を持つ
者は容易に涙を見せてはいけないのよ?」
「このような時に涙を流せぬ者など人としてあってはならぬと妾は思います」
「……そうね。恵の言うとおりだわ。なら、たくさん泣いてちょうだい」
 棗がそっと恵の頭に手を置く。それを合図に恵は大声で泣いた。

ちっ。あのまま餌として食べられていればいいものを。

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