第四十六話「夏だ、海へ、その前に……」

 八月下旬。
 あと少しで夏休みも終わりになろうという頃……。

 俺はデッキブラシでタイルを擦って、擦って、擦り続けていた。
 何をやっているかと訊かれれば50畳という半端じゃない広さの風呂場の掃除と答えよう。
別に棗から命令された訳じゃない。逆に命令されなくてやることもなく暇だから、その暇
つぶしにしていた。
―― いつの間にやらすっかり働く事が板についてるってか。
 心は洗脳されずとも体が洗脳されていたらしい。
―― 適応能力って怖い。
 つくづくそう思う。1時間ほど掃除を続け、ようやく終わろうとしたところで、
「何をしているの?」
 やってきた棗がやや不機嫌な声で問いかけてきた。
「いや、見りゃわかるだろ。風呂掃除だよ、風呂掃除」
「何故? 私は何も命令していないというのに」
「ヒマだったんだよ。ここじゃ俺がヒマを潰す方法はこんな事しかないんでね」
「……そう。ごめんなさい」
 棗が謝罪したとたん、全身を寒気が突っ走った。
「や、やめてくれ。お前が謝ると体に悪い」
「何です、それは。けれど、そうね……ヒマというのは私も同意見です」
「そういや、お前ってこの夏休みどこにも行ってねえよな。蘭達とも遊んでねえようだし。
寂しい夏休みだな〜」
 からかい半分で言ってみると、
「あの二人と遊ぶよりも彩樹と一緒にいる方が有意義な時間の過ごし方だもの」
「……」
 何とも赤面を誘う言葉が返され俺は返答に窮した。
―― そこまでストレートに言いますか。
 考えてみれば棗から『愛している』と告白されていたんだ。それを思えば今の発言は頷
けるのだが、その発言者が棗だと思うと素直に頷けないというか、何というか。
―― いい言葉が見つからねえ。
 ただ、何故か『女の友情よりも愛情』という言葉が浮かんだ。
「ねえ彩樹。どこか行きたい場所はない?」
「行きたい場所ねぇ。う〜ん、この時期でこの暑さだと……海だな」
 去年は燦々と照りつける太陽の下、大海原を眺めて楽しみ、泳いで楽しみ、海の家で不
味いラーメンを食べて思い出を作ったものだ。
「それならいい場所があります」
「あ? 海外にプライベートビーチでも持ってるのか?」
 世界五指に入る資産家のお嬢様なら持っていても何ら不思議じゃない。
「ええ。海外ではなく日本国内にあります」
「……どこだよ」
 この狭い日本でプライベートビーチ。場所が少しも予想できなかった。
「行きたい?」
「ま、遊べるなら」
「なら行きましょう。もちろん私と彩樹のふた――」
「妾も行くぞ」
 いつからいたのか、棗の後ろからひょっこり姿を現した恵が話に割り込んできた。
 気まずさを含んだ一瞬の沈黙のあと、
「海か。妾はあまり泳ぎが得意ではなくてのう。彩樹はどうなのじゃ?」
「泳ぎか? まあ、人並みにはできるぞ。海じゃ距離は測ったことないがプールじゃ50
mプールを端まで泳げたしな」
「そうかそうか。ならば是非泳ぎを教えてもらうとしようかの」
 満面の笑みで頷く恵に反して、棗は今にも怒りを爆発させそうな顔をしていた。が、そ
んな棗に気付くことなく、
「ならば妾は早速準備するのじゃ! せくし〜な水着で彩樹を悩殺してやるぞ!」
 『悩殺悩殺〜♪』と歌いながら恵は風呂場から出ていった。直後、けたたましい音が浴
室に響き渡る。怒りに身を任せた棗が桶を足で踏み抜いたのだ。
―― やれやれ。ここはフォローするしかねえな。
 でなければ史上最悪の姉妹喧嘩が勃発しかねない。俺はデッキブラシを壁に立てかけて
から近寄ると、
「落ち着けよ。姉妹は仲良く、だぞ」
 ゆっくり撫でるようにして棗の頭を何度か撫でた。
「わかっています。けれど、不服です。そこは私が彩樹と……二人で過ごすために……」
 顔を俯かせたままブツブツ文句を言い始める。
「だからって恵に黙って行くってのはあいつが可哀想だろ。目を覚ましたら俺達がいなか
った、なんて事になったらあいつ泣くんじゃないのか?」
「……わかりました。とても不服ですけれど恵の同行を許可します。くれぐれも言ってお
きますが、私はとても不服で不機嫌です」
 両腕を組んで棗が小さく鼻を鳴らすとそっぽを向く。
 前の俺なら銃口向けられるんじゃないかと冷や冷やしていただろうが、今では不思議と
笑みが零れた。
「何を笑っているの? 私は不機嫌と言ったでしょう」
「はいはい。んで、どうすりゃ機嫌がなおるんだ?」
「……わ、私をこの場で抱きしめなさい」
 棗の言葉が耳を通して脳へ伝わる。脳、過負荷により強制終了。
「彩樹? ……目を覚ましなさい!」
 往復ビンタにより再起動開始……完了。
「はっ!? 俺はいったい……」
 どういう訳か、どうしたら機嫌がなおるか問いかけた後の記憶が全くなかった。
「……もういいです。海へは明日早朝に出発しますからそのつもりでいなさい」
「ああ。準備とかはいいのか?」
「私を誰だと思っているの? 全ての用意は現地に常備してあります」
「さすがさすが。んじゃ、あとは行って遊ぶだけか」
 ここずっと閉鎖的な生活をしていたせいか、海で泳ぐ光景を想像するだけで自然と笑み
を浮かび、体が疼いてしまう。と、刺すような視線を感じて想像を中断すると、
「……」
 棗が不機嫌な顔で俺を睨んでいた。
「な。何だよ」
「命じます。浴室の掃除を終えたら私の部屋を除く全ての部屋を掃除なさい」
 そう言うや棗は踵を返して浴室から出ていく。慌てて俺は追いかけた。
「な、何でだよ! よくよく考えてみりゃお前の命令を聞く必要ないだろ。誓約変わった
んだぞ?」
「彩樹が私の命令を聞かなければならない理由がふたつあります。ひとつ、貴方のお父様
の借金を私が支払ったから。ふたつ、………乙女の純情を踏みにじるような輩には当然の
処置です! 玲子、彩樹がサボらぬよう監視なさい」
「かしこまりました」
 返答の後、俺の隣にメイド女が姿を現す。
「ひとつ目はわかるがふたつ目は何なんだよ」
 踵を返して浴室へ。
「……ったく。あぁぁぁぁぁあ!」
 理由もわからず苛立たれて俺までイライラしてきた。
 そんな俺に向かって、
「ああ、この罪深い男を切り刻みたい」
 玲子は洒落にならない言葉を口にする。
―― まったく、俺が何をしたってんだよ!
 噴火した活火山の如く吹き出した怒りをデッキブラシに込めてタイルに叩きつける。結
局、理不尽な扱いを受けても言われた通り掃除してしまう俺であった。

 風呂掃除を終えた後、棗の指示通りに部屋の掃除を終えると午前零時を回っていた。
 部屋に戻った俺は堅い畳の上に倒れ込み、
―― 明日は楽しい楽しい海でのバカンス。遊んで遊んで遊びまくってやるさ。
今日の怒りはそこで全て発散させようと思いながら深い眠りへと身をゆだねた。

次回は久しぶりにわたくしの出番よ!

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