第四話「二日目の朝」

 分厚い本―棗百科事典と命名―を閉じ、俺は大きく息を吐いた。
「俺は俺自身を誉めてやりたい」
 人間本気でやればできないことはないと断言しよう。
 睡眠不足と脳内疲労でかなりヤバイ気もするが。とにかく覚えた。1672ページにも
及ぶ棗のパーソナル情報の全てを頭に詰め込んでやった……と思う。
「おはよう」
 できれば聞きたくなかった声。重い頭に鞭打って声の主を見る。
 薄ピンクのネグリジェにナイトキャップという格好で我が雇い主が仁王立ちしていた。
 詰め込んだデータを呼び出してみる。
 法光院棗。15歳。身長166cm(12月31日時点)。体重47kg(12月31日
時点)。姉が1人に妹が2人の計4人姉妹の次女。好物はソフトクリームらしい。
 ああ、あとはこれだ。
「よう。上から80B、55、83」
 言い終えると同時に顔面を踏みつけられた。
「もし人前で私の3サイズを公表などしたら素っ裸にして山手線の先頭に磔にします」
 言われたくなきゃそんなもん載せておくなと思う。とにかくこの屈辱から逃れるために
棗の足を掴み、
「くらえ」
 思い切り感じるように吐息を吹きかけてやった。
「きゃっ!」
 悲鳴をあげて棗は足を引っ込める。顔が少しばかり赤くなっていた。
「へっ」
 してやったりと笑ってみせる。
「……」
「……」
 沈黙。しばしにらみ合う。
――ゲシゲシゲシゲシ!!
 何度も蹴りが飛んできた。普通なら受け止めてひっくり倒してやるんだが疲労のあまり
それも出来ない。それにあんま威力もないのでしたいようにさせてやった。
 2分ほど蹴りつづけて満足したのか、
「着替えます。外へ出ていなさい」
 無駄にデカイ出入り口を指差した。
「着替えの世話はよろしいので?」
 冗談で言ってみる。いつのまにか棗の手に黒光りする凶器が握られていた。
「あ〜はいはい。不要ってことね。そういえばこの本はどうすればいい?」
「外にいる者に渡しなさい」
「へいへい」
 横柄に答えながら外に出る。
「ふぁ〜〜〜〜あ」
 自然と欠伸が漏れた。一睡もしてないので滅茶苦茶眠い。
「欠伸をしている所申し訳ありません」
 突如眼前に現れた金髪の男。驚きを声で表そうとするが、大口をあけすぎて危うく顎が
外れそうになった。
「だ、誰だ、お前は」
「申し送れました。ルクセインと申します。以後、お見知りおきを」
 恭しく一礼し、ルクセインは微笑を浮かべた。
 少しばかり観察してみる。顔はかなりの美形で、身長も俺よりやや高い180ちょっと
はあるだろう。服装はどこをどうみても執事な格好だった。
「ふ〜ん。で、そのルクセインが何用だ?」
「昨日、お嬢様から本をいただいたはずです」
「これのことか?」
 というかこれ以外に本らしきものはもらっていない。
「ああ〜そうか。お前に渡せばいいんだな。ほれ」
「承りました。それでは自分は失礼いたします。……ご健闘をお祈りしておりますよ」
 そう言い残し、ルクセインは踵を返して行ってしまった。
―― ご健闘って何だ? いちおう応援というヤツか?
 いまいち意図がわからなかった。

 その後、着替えた棗に食堂へ案内された。何をするかはひとつしかないだろう。
「のお」
 中に入った俺は不覚にも声をあげてしまった。
 20メートルはあろうかという長テーブルには値段も名前もわからない料理がずらりと
並んでいた。その料理から漂ってくる美味そうな匂いに思わず涎が出そうになる。
「……まさか、貴方がこれを食せると思ってはいませんよね?」
 棗が哀れみをこめた声と見下すような表情を向けてきた。
「そんなのは予想済みだよ」
 俺はため息を吐く。仮に食わせてもらえたとしたら必ず毒が入っているに違いない。
「で、俺の飯はどこだ? 自分で作れってのか?」
「これよ」
 そう言って棗が己の足元を指差す。俺は言葉をほんの少しばかり言葉を失った。
「マジで言ってるのか?」
「嘘を言っていると思っていたの?」
 いつものように他人を見下した表情を浮かべて棗はせせら笑った。本当に嘘は言ってい
たのだろう。
「……」
 もう一度俺はそれを見る。
 どこをどう見てもペット―犬やら猫―の餌を入れる銀の器に味噌汁ぶっかけご飯が山盛
りになっているようにしか見えなかった。
―― 相打ち覚悟でこいつを殺してやろうか。
 朝から殺意がわいた。
「お気に召しません?」
「お気に召すヤツがいたら見せてもらいたいものだ」
「いないわけでもないのですけど……今日は時間もないことですし呼び出すのはやめてお
きましょう。貴方はこれでも食しなさい」
 棗はやってきたコックからカップ麺を受け取り、放り投げた。それは放物線を描いて俺
の手に落ちる。
―― ま、ねこまんま食うよりはマシか。
 諦めて俺は朝食をカップ麺で済ませた。

「これからどうするんだ?」
 食事を終えた俺は棗と共に屋敷を出た。
「花の女子高生が行くところと言えばひとつしかありませんでしょう」
 つまりは学校だ。確かに今日は平日。こいつの言うことはもっともだった。そこでふと
思い当たる。
「おい、俺だって学校があるんだぞ」
「ありません」
 そう言いきる棗を見て、まさかと思う。
「昨日も言いましたが貴方名義で契約している物事は解約してあります。その中にはもち
ろん、高校も含まれているのよ」
 半ば予想していた言葉を、棗は楽しげに口にした。
「……やっぱそうなってやがったか」
「ですけど、私よりも早く貴方のお父上が退学届を出していたそうですわ」
「おい、昨日の100ポイント無しでいいからクソ親父をこの世から抹殺してくれ」
「ご自分でおやりなさいな」
 投げやりにそう答えて棗が歩き出す。と、彼女の横に銀色のリムジンが停止した。運転
席が開き、先ほど部屋の前で会ったルクセインが出てくる。流れるような動きで後部扉を
開ける仕草はかなりの年季を思わせた。
 礼の言葉もかけず棗は車に乗り込む。ルクセインは静かに扉を閉めて運転席に戻ってい
った。
「さてと、やっと休めるか〜」
 安堵して俺が体を伸ばすと、リムジンのパワーウィンドウが開いた。
「何をしていますの? 貴方もあれに乗って出発する準備をなさいな」
 棗が玄関脇を指差した。
 そこにあったのはママチャリ。どこからどう見ても普通のママチャリだった。
「籠の中に学園までの地図を入れておきましたので迷うことはないでしょう。そうそう、
ここで命令します。この車よりも早く学園に到着し、私を出迎えなさい。成功ポイントは
5ポイント。失敗すればマイナス10ポイントです」
「んなの無理に決まってんだろ! 車とママチャリじゃ走行速度がうさぎと亀だ!」
「いいえ。この時間ですと多少の渋滞が発生しています。無理ではないはずよ」
「あのな! 俺はさっきまで覚えたくもないお前のプロフィールを覚えてヘトヘトなんだ
よ。少しは労わりの心ってのがねえのか?『疲れてるなら休みなさい』ぐらい言えよ!」
「それだけ吠える事ができれば十分でしょう。では」
 パワーウィンドウが閉じる。同時にリムジンが発進した。
 小さくなっていく車体。ブチッと頭の中で何かが切れた。
―― 俺様の実力を思い知らせてやる!
 ママチャリにまたがり、全速でペダルをこいだ。棗への対抗意識が頭を埋め尽くし、溢
れんばかりの怒りが眠気と疲れを消し飛ばしていた。
―― やれる! 今ならあのリムジンよりも速く目的地に到着して勝利できる!
 体と心にそう言い聞かせ、俺は地図に示された目的地に向けてひたすらペダルを漕ぎ続
けた。
「うぉぉぉぉぉお!!」
 全速力で目的地に向かう。

 そこで俺は、目的地が想像していた以上に一般常識というものがない場所だということ
を、後に思い知らされることになるのだった。

←前へ  目次へ  次へ→