第三十一話「救出・前」

 それは突然の出来事だった。
 棗さんの車の中で目を覚ましたと思ったら突然の衝撃。車はガードレールに衝突して止
まった。それから間を置くことなくひとりの女性がナイフを手に入ってきて……。

 今、アタシと棗さんはいかにも身を隠せそうな廃棄工場に軟禁されていた。

「あの人は棗さんの?」
 メイドさんと続けることなくアタシは隣にいる棗さんを見た。
「いいえ。あのような品のない者は暗部にはおりません」
「ま、そうだね」
 顔を棗さんから誘拐犯に向ける。年は20後半から30くらい。少し化粧が濃い女だっ
た。なぜか服は黒のゴスロリ。それなのに手には棘のついた鞭が握られている。
―― 品がないというか個性的というか。
 総合評価は相手の性格がよくわからないでまとまった。
「で、どうする?」
 再び棗さんに顔を向ける。
「どうするとは?」
「逃げるか、それともこのままでいるかってこと」
「逃げようとして逃げられる相手ではないでしょう。形はああですがあの女性……かなり
の実力の持ち主のようです」
「そうなの? アタシにはそうは見えないけど」
 いかにもサドなオバさんって感じだ。多少は強そうに見えるけど、かなりっていう風に
は見えない。
「蘭さんはそういった世界を知らないのですから仕方ありません。でも、私は違います。
彼女からは玲子や他の子達と似た威圧感がある。外見は私達を欺く罠でしょう」
「それがホントなら……アタシらってさ」
 自らが置かれた危機的状況を理解したとたん頬が引きつった。
「とても危険ですね」
 言葉とは裏腹に棗さんは平然としている。恐怖も不安も微塵も感じさせず、むしろ堂々
とした表情をたたえていた。
―― やっぱり棗さんが仕込んだんじゃ……。
 彼女の堂々とした様子を見ているとそうとしか思えない。と、周囲を警戒していた誘拐
犯の顔がアタシ達に向いた。
「縛られてる気分はどうだい?」
「最悪ね。縛らなくとも私達は逃げません。縄を解きなさい」
 憶することなく棗さんは言う。直後、誘拐犯の平手が棗さんの頬を強かに打った。
「おやおや。法光院のお嬢様はご自分の立場ってもんがわかっていないようだねぇ。ええ?
あんたは人質なんだ。人質は大人しくあたしの言うことを聞くもんだよ。でないと……次
はこれがあんたの綺麗な顔に消えない傷を作るかもねぇ」
 そう言って誘拐犯はぞっとするような笑みを口元に浮かべて、
「そうそう。まだ名乗っていなかったけねぇ。あたしの名は『パースウィト』。しがない殺
し屋さ。ま、死ぬまでの少しの間だけど覚えておきなよ」
 まるで世間話でもすように名乗った。
「その殺し屋が私達にどんな用件があるというの?お金目当て?」
「金? あたしはそんなもんじゃ動かないよ」
 けらけらと彼女−パースウィトは笑った。
「じゃあ、なに?」
「ほしいものを見つけたからさ。そう、可愛くて、愛らしい……あの坊や」
 アタシにはそれが誰を意味しているのかすぐにわかった。
「縁」
「ご明察の通り。一目見ただけで気に入ったよ。ああいう子を自分の思い通りにできるっ
て思ったら我慢できなくなってねぇ。しかも都合良くお出かけとは……神様も粋な計らい
をしてくれたもんだよ」
「縁はアンタなんかに渡さない」
「どうやって抵抗するのさ? 縛られてちゃ何もできないだろ。まあ、自由だとしてもこ
のあたしの鞭が―――」
 ひゅん、と鞭が唸った。続けて『かしゅん』という何かが切断されたような音。その音
の発生源を見てアタシは息を呑んだ。
「あんな風にするのがオチさ」
 パースウィトが嘲笑った直後、ハウスの骨組みのような鉄骨が音を立てて崩れた。彼女
が骨組みの支柱である鉄骨を切り裂いたのだ。
 鞭で、鉄を。
―― 危険だ。このオバン。
 まざまざとその実力を見せつけられたアタシは少しばかり惚けてしまう。
「さぁて、どうやらここは嗅ぎつけられたようだねぇ。となると、あの坊やが来るのも時
間の問題か」
 鼻歌交じりに言うと、パースウィトは周囲を見渡しながらアタシ達から離れた。もし来
たら縁はあの女に何をされるか……想像もしたくなかった。
―― アタシはどうなってもいい。縁……来ないで。
 いくら縁が訓練されているからって勝てる相手じゃない。来たらいけない。
―― お願いだから来ないで。
 目を閉じて祈る。が、その祈りは届かなかったらしい。
 遠くから甲高いエンジン音が聞こえてきた。
「どうやらご到着のようだねぇ」
「遅いこと」
 パースウィトと棗さんが口々に言う。それから間もなくして、工場の壁を突き破って一
台のバイクが入ってきた。
「縁!」
 『来ちゃだめ!』と叫ぶ前にパースウィトが動く。彼女の手にしていた鞭が消えた―刹
那、
「のあっ!?」
「うわっ!」
 バイクの前輪が細切れになり、バランスを失ったバイクから二人が放り出された。レア
君は地面に叩きつけられるも縁は訓練されていたからか空中で体勢を立て直すと、パース
ウィトの前に着地した。

 玲子さんの言うとおり勝てそうにはなかった。
 『パースウィト』。
 裏では結構名の売れた殺し屋。放たれる気配を感じただけで全身が震えだした。体が自
然と彼女の強さを感じているらしい。実力差は圧倒的だった。
「おやおや。震えなくても何もしやしないさ。そう、今は……ね」
「お、お嬢様を返してください!」
「構わないよ。ただし、あんたがあたしの物になるってならね」
 彼女の提案に僕は即座に首を横に振った。
「残念ですけど僕はお嬢様のものです。お嬢様以外の方にお仕えする気は毛頭ありません」
「そうかい。なら――」
 パースウィトがお嬢様へと体を向けた。
―― させない!
 お嬢様に危害を加えるつもりだと判断した僕は全力で地を蹴った。
 そして、
「あんたを束縛してる元凶を壊せばいいねぇ」
 振り上げられた鞭を掴んだ。同時に鞭の棘が皮を突き破って肉を裂き、血が手の平から
零れ落ちる。
「縁!」
「だい、じょうぶ……です。我慢するのには慣れてます」
「ほぉ〜。健気だねぇ。ご主人様を守るためなら自ら苦痛を受けるかい。可愛い…可愛い
よぉ。ますますほしくなった」
 彼女の指先に顎を上げられる。柔和な笑みを浮かべるも向けられる二つの瞳は冷え切っ
ていた。
「もう一度訊くよ。あたしの物になれ。そうすりゃあんたの大事なお嬢様は無傷で返して
やるさ。断れば……確実に壊す。あんたが見ている前で、ね。さあ――」
 『どうする?』と声には出さずに口の動きだけで彼女は言った。
―― 僕がこの人の物になればお嬢様は助かる。拒否したら……。
「答えを聞かせておくれ」
「ぼ、僕は……」
「縁!」
 大好きなお嬢様の声。でも、今はそのお顔は涙で濡れていて……。
―― 断れば。
 そのお顔から一切の色がなくなってしまう。それだけはあってはならない。
 パースウィトに気づかれないよう周囲の気配を探る。
 まだ玲子さん達は準備を終えていない。助けてはくれないだろう。お嬢様を守れるのは
自分しかいないのだ。
―― この人の物になると言えばお嬢様を助けることができるんだ。
 それなら。
「僕は、僕は貴女の物に……」
「却下だ!」
 立ち上がった彩樹さんが割り込んできた。
「お前、本当にそれで全部丸く収まるって思ってねえだろうな」
「いいんです。僕はお嬢様が助かるのなら」
「助かった後は? そいつはお前のいない生活を続ける。それがそいつにとってどんなこ
とか……考えてから答えろよ」
 僕はお嬢様を見た。
 僕のいないお嬢様の生活。お嬢様のいない僕の生活。
―― ああ。
 想像すればするほどなんと空虚な生活だろうと思った。
 自惚れかもしれないけどお嬢様は僕をいつも必要としてくれていた。僕もいつもお嬢様
を必要としている。どちらが欠けてもいけないんだ。
「どうしよう。彩樹さん、困ってます」
「つぅ〜背中いて〜。あ〜、なら困ってる理由を言ってみろ」
「お嬢様がこの人に傷つけられるのも、お嬢様と離ればなれになるのも嫌です。僕は、僕
はどっちを選べばいいのかな」
 大きなため息を吐いてから彩樹さんは面倒くさそうに言った。
「どっちも嫌なら選ばなきゃいいだろ」

 つづくみたいだねぇ

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