第三話「初勝負?」

「んで、とりあえず俺の寝床はどこだ?」  目が覚めたばかりなのにえらく疲労していた。少し横になって休みたい。
「あそこです」
 棗の指差す先――部屋の右隅に見えるのは畳一枚。他にはボロ毛布が1枚あるだけだっ
た。一瞬の思考停止に陥る。
「おい。まさかあの畳一枚がそうだってのか?」
 俺は念のために質問した。
「私の部屋をあれだけ占領してまだ不満なのですか。あれでもかなり譲歩してあげてます」
 ため息混じりに棗が言う。本気だった。
「譲歩しなくていいから別に部屋にしろ!俺もその方がいい!」
「不許可。私の傍にいて、いつでも迅速に世話ができること。それこそが世話係の基本中
の基本……そうは思わなくて?」
「いや、普通は必要なときしか傍にいないような気もするんだが」
 何だか頭が痛くなってきて俺は頭を押さえた。
―― そもそも用事がないときは何をすればいいんだよ。
 その答えは問い掛ける前に返ってきた。
「私は1秒たりとも待つのが嫌いです」
 どうやら本音はそれらしい。何とも我侭なお嬢様だ。
「ともかくそこ以外には認めません」
「ああ〜はいはい。わかりましたよ」
 俺は憮然と応えながらも、決まってしまった畳一枚の生活に心の中で泣いた。
「さて、早速明日から働いてもらうのですけれど……その前に」
 彼女がウェイターでも呼ぶかのように指を鳴らす。
「お待たせしました、お嬢様」
 音もなく女が棗の横に出現した。どこからどう見ても普通のメイド。年は自分と同い年
か少し上くらいか。
「破壊した壁を朝までに、私の安眠を阻害することなく終えてちょうだい」
 棗がそう言うと、俺をちらりと一瞥してからメイドは一瞬にして姿を消した。
「……どういう原理だ」
「ちょっとした訓練を積めばできるらしいです。何でしたら訓練してみます?」
「いや、いい。俺は普通の世話係を目指してるからな」
「そう。はい、これを明日の朝までに暗記しておきなさい」
 渡されたものを見る。広辞苑並に分厚く重い。紺色のハードカバーには何の題名も書か
れていなかった。
「何だ、これは?」
「私に関する資料よ。お世話をするにも相手のことを熟知していなければ良い世話などで
きないでしょう」
「だからってこんな分厚いのを朝までだと?」
 ざっと見ても1000ページ以上はあるだろう。それを朝までに全て暗記したら『暗記
天才』としてギネスに載るのは間違いない。
 つまり、無理ってことだ。
「これは命令よ。ポイントは……そうね、20ほど進呈します」
 そんなことはお構いなしに棗が女王様然と言う。
「100だ。これだけの量を朝までにだぞ?100くらいはもらわなけりゃ割が合わない」
「いいでしょう。100ポイント進呈します」
「あ〜それと後ふたつほど配給してほしいもんがあるんだけどよ」
「単なる世話係の癖に欲張りですね。いったい何がほしいというの?」
「ライトと腕時計。どっちも簡素なものでいい」
 どうせこいつが寝るとこの部屋の明かりが消えるに決まっている。多少月明かりで見え
るかも知れないが、そんな状況で暗記などしたくはなかった。
 時計はそのまんま時間を把握するためだ。
「いいでしょう。その程度なら支給してあげます」
 再び棗が指を鳴らした。
 同じようにさっきのメイドが現れる。手にはどこにでも売ってそうなスタンドライトと
安っぽい腕時計があった。
「これで文句はありませんわね?」
「ああ」
「そう。それなら今日はもう用はありません。寝床に戻りなさい」
 言われるまでもない。用もないのにこいつと顔を合わせたくなどなかった。ライトと腕
時計を受け取って今日から我が城となった畳に座る。
―― すんげえ悲しい。
 バブル崩壊で職を失いホームレスになった社長やサラリーマンの気持ちがよくわかる。
「とりあえずやるか」
 腕時計を右腕につけ、まだ使わないスタンドライトを隅に置き、俺は暗記に入った。
 まずは黙々と読み、次に声に出して読み、目を閉じて思い出して口に出す。何度も何度
もそれを繰り返し、気づけば外は朝になっていた。


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