第二十九話「棗、何かを思いつく」

 縁の熱は夜に多少上がったものの翌日には下がっていた。
「ご迷惑おかけしました」
 朝、俺が朝食のベーコンエッグを作っていたら、下りてきた縁が深々と頭を下げた。
「あ? 気にすんなよ。お前が倒れたのも少しは俺が原因だしな。まあ、治って何よりだ」
「そう。気にしなくて良いのですよ。彩樹は縁さんと違って働き者ではないですから、こ
ういうときにこそ働かせなければね」
「よく言うぜ。あのだだっ広い部屋の掃除だの無駄にデカイ風呂掃除だの離れのミニ図書
館から読書用の本を持ってこいだの、十分働いてるってんだ」
 出来上がったベーコンエッグを皿に移す。
「掃除・洗濯・炊事ができるのは当たり前よ。それができなくて何が"世話係"ですか」
「あ〜はいはい。出来が悪くてすんませんね!」
 悪態をつきながら俺は湯気立つ皿を棗の前に置いた。
「……見栄えが悪いですね。私が作ったらこんな見栄えの悪いものは決してできないわ」
「うっせえよ! いらねえんなら食うな!」
 皿を取り上げようと手を伸ばすと、それよりも速く棗が皿を持ち上げた。
「食べます」
「なら文句言うな」
 我が儘に嫌気がさして俺は苛立ちのあまり頭を掻きむしった。
 と、
「おやおや。朝から二人とも仲がいいね〜」
 遅れてやってきた蘭がにんまりと笑った。
「今のどこをどう見たらそんな言葉がでるのか教えてほしいもんだ」
「ん〜〜ヒミツ」
「何だかな〜ったく。まあいい。お前らの分も作るから座って待ってろ」
「あ、お嬢様の分は僕が作ります」
 突っ立っていた縁が弾かれるように駆けてきた。
「お嬢様の食事は他の人には任せられないってか」
 小声で耳打ちすると、縁は顔をわずかに赤くさせた。何ともからかいがいがあるヤツだ
った。

 それから4人で朝食を取り、すぐに暇になった。

「暇だね〜」
 ソファーに身を埋めて蘭が呟く。
「そうね。彩樹、私達を満足させるような面白いことをなさい」
「やなこった」
「200ポイントあげると言っても?」
「自慢じゃないが"面白いこと"をして他人を笑わせたこたぁない。無理なのにやるっての
も面倒だしな」
「やる前から諦めるなんて根性なしね」
 やれやれと棗はため息をもらす。
―― 何だ何だ?
 何やら今日は妙につっかかってくる。
―― 怒らせてもいねえし……わからん。
「何かしら?」
「何でも。お、そうだ縁」
「はい?」
 俺の声に蘭の髪を整えていた縁が振り向く。
「冷蔵庫の中身がもうないから後で買っておけよ」
「あ、そうですね。う〜ん、お昼もありますし……これから買いに行ってきます」
「んじゃ、アタシも一緒に。お二人はゆっくりくつろいでてよ。ま、棗さんのお屋敷に比
べりゃ狭すぎてくつろげないかもしれないけれどね」
「いいえ。ありがとう、そうさせていただきます」
「じゃ、行ってくるね〜」
 そう言って蘭は縁と二人で買い物へと出かけていった。何とも都合良く棗と二人きりに
なることができた。
「……で、お前の方はどうだった?」
 玄関の戸が閉まる音を聞いてから、俺は庭の方を見たまま問いかける。ここからだとち
ょうど手を繋ぎながら出かける2人が見られた。
「貴方から話しなさい」
「顔の傷」
 どうせ知っているだろうと俺はそれだけを口にした。
「そう」
「お前はあいつの顔の傷……知ってたのか?」
「ええ。その傷がどうして出来たのかについては先日調べさせました」
「後悔。それが縁を縛ってる」
「怯え。それが蘭さんの想いを押さえつけている」
「やっぱ時間が縁の後悔を消すまで待つしかないか」
 お互いが想い、言葉に出来ないだけならやりようはある。だが心の傷が問題となると話
は別だ。心の傷はそう易々と消せない。今回の場合は荒療治も単にその傷を抉るだけにな
ってしまう可能性が高そうに思えた。
「そうとも限らないでしょう」
「あ?」
 そんな俺の考えとは裏腹に棗は自信に満ちた瞳を向けてきた。
「考えがあります」
「な、何すんだよ」
 俺の中で言い表しようのない不安が広がった。
 しかし、棗は言葉で答えることはなく、何とも俺を不安にさせる笑みを口元に浮かべる。
―― 無茶苦茶なことすんなよ〜
 今の俺にできるのは心の中で祈ることくらいだった。

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