第二十四話「縁」

 ヌボーーーーッ。
 そんな擬音がもっとも適当だろうか。朝食中、俺はそのヌボーーーって感じで向かいに
座る棗を見ていた。
「何かしら?」
 視線に気付いた棗が俺を見る。
「い、いや別に。ただちっと堅い大理石の上で寝たから疲れが溜まってるだけだ」
「自業自得ね」
「へいへい。そうですね」
 優しさの欠片もない応対に俺は横柄に答える。
―― やっぱあれは夢だったんだろうか?
 キスしてきたにしては態度が変わっていない。いつも通り、いつもの扱いをされている。
いや、今日はいつもより酷い扱いだ。
「……」
 視線を棗から自分の前にあるものを見る。カップラーメン。朝食にはカレーを頼んだと
いうのにカップラーメン。
―― 何だかな〜。
 わからない。ますますもって法光院棗という女の考えがわからなくなった。
 そのまま味気ない食事が終わって登校、一気に放課後となった。

「先に戻ります」
 そう言って棗が車の中に乗り込むと、颯爽とリムジンは去っていった。
「縁、車とかショタコン女とかに気を付けて帰ってくるんだよ」
「はい、お嬢様」
「じゃあね」
 聞き覚えのある声に顔を向ける。すぐ近くで棗の友人・豊阿弥蘭が奴隷・縁の頭をひと
撫でし、車に乗り込んでいた所だった。縁を残してBMWは走り去る。
 縁を可愛がっている蘭が何故一緒に帰らないのか。
『奴隷は主と一緒に登校及び下校をしてはならない』
 というのがこの学院の決まり事なんだそうな。
「ったく。日曜なのに何で学校なんだって感じだよな」
 縁に歩み寄りながら問いかける。が、返答がない。
「お〜い。もうその年で耳がアレなのか〜」
 返答なし。黙秘。沈黙。無視。
「返事ぐらいしろよ」
 軽く縁の後頭部を小突く。
 ゴンッ。
 ほんの軽く、冗談のつもりで小突いただけで縁は顔から地面に倒れた。
「お、おいおいおい! ち、違うぞ! 滅茶苦茶手加減してたぞ!」
 軽蔑の視線を向けられたので言い訳しつつ、俺は縁を起こした。
「おい、どうしたんだよ?いつものお前なら……?」
「はぁはぁはぁ」
 様子が妙だった。顔が赤い。息が荒い。ハァハァ息……かといってハァハァ電話をして
いるわけでも、エロいこと考えて興奮しているわけでもない。
 間違いなく。
「風邪か? 風邪なのか?」
「あはは。お嬢様が見てないって思ったら気が抜けちゃったみたいだよ」
 縁が弱々しく微笑む。
「まさか朝からずっと我慢してたのか?」
「うん。お嬢様に心配かけたくないから。それに風邪なんて大したことない……とと」
 立ち上がろうとして縁が体をよろめかせる。ため息混じりに俺は体を支えてやった。
「とりあえず病院いくぞ。金はねえが、確か後払いOKだったはずだ」
「それはダメ! 病院に行ったりしたらお嬢様に風邪のことがわかっちゃうよ。それだけ
は……嫌なんだ」
「あのな、風邪だって油断してると死ぬんだよ」
 そう言って俺は風邪について話してやった。人間体温が39度を超えると危険な状態に
なる。39度で脳の活動に影響が現れ、41度で肝臓が死ぬ可能性があり、42度を超す
とタンパク質が融解、壊れてしまう。
 タンパク質は人の細胞を形作る基本部品だ。それが固まって戻らなくなればどうなる
か? 考えなくとも答えはわかるだろう。
「わかったか? 風邪ってのは結構怖い病気なんだよ」
「でも、でも病院にだけは……ごめん」
「どうしてもか?」
「うん。病院に行くくらいなら僕は……死を選ぶよ」
 真剣な眼差し。よもや俺よりも年下のちっちゃなガキにこんな目をされるとは。
―― マジだな、こりゃ
 俺はため息ひとつ漏らしてから、
「はいはい。わかりましたよ。病院には連れて行かない。だが!」
「だが?」
「お前をあいつの家まで運んでやる。その体じゃ動くのだってつらいだろ」
 立つのがやっとって感じだ。いくら訓練された奴隷でも病には勝てないってことらしい。
「でも」
「運ぶ!」
「でも彩樹さんは棗様のお世話が」
「あ、棗の世話? そんなのいいんだよ。いつもいつも無茶なことさせられてんだ、たま
にはサボらせろ」
 それに、
―― 今はちょっと顔をあわせづらいしな
 と心の中で付け加えた。
 理由もなくサボったら銃殺されそうだが、友人の奴隷を助けたって理由ならポイント減
で済むだろう。
「よし。そうと決まればいくぞ」
 弱った縁を小脇に抱えたまま駐輪場に向かう。
「彩樹さんは変な人だね」
「あんだと?」
「普通なら僕のことを気にせずご主人様の下に戻るのに、貴方は僕を心配して、しかも家
まで送ってくれるなんて……稀少存在だよ」
「だからってレアさんとか呼んだらぶん殴るからな」
 主が主なのでありえないと俺は釘をさしておいた。駐輪場までくると、チャリの荷台に
縁を置く。
「んで、お前の、というかあのお嬢様の家はどこだ?」
「えっと、ここから7つ先の駅から歩いて30分のところ」
「な、7つ先……」
 それを聞いてとたん急に体が重くなった気がした。
―― 7つかチャリだと1時間以上くらいか……空腹で倒れねえかな。
 今日は午前中で終わったので昼飯はまだ。邸に帰ってから食うことになっていた。
 ぐぅ〜。
 昼飯が先だと思ったら腹の虫から催促がきた。まるで『そんなん認めねえぞ!』とでも
言っているかのようだ。
「あの、やっぱり」
「ええ〜〜い!黙れ!」
 縁と鳴り続ける腹に向かって叫び、俺はサドルにまたがった。
「とりあえずお前を連れて行く条件をつける。飯食わせろ」
「わかった。僕が作った物でいいならあげるよ」
「交渉成立だ。んじゃ、行くぞ!しっかり掴まっとけ!」
 日々の勝負で鍛えた足をフルに使ってペダルを漕ぐ。
 やたら上り坂の多い道ばかりだったが、俺はどうにかして縁の主・豊阿弥蘭の家にたど
り着くことができた。
「ぜは〜〜〜ぜは〜〜〜〜〜……い、一時間半ジャスト〜〜〜〜」
 ハンドルに突っ伏したまま息を整える。
 休み無しでの走行で体力残量1%って感じだった。
「こ、ここで、い、いいんだろ?」
 何の変哲もない普通の一軒家を見る。表札には間違いなく『豊阿弥』とあった。
「うん。はぁ……はぁ……」
 縁の息が荒い。
―― マズイな。さっきより悪化してやがる
 もはやどいつでも病人だとわかる
―― さて、どんな嘘で誤魔化すかな
 チクタクチクタク……チーン。
「これでいくか!」
 誰もが思いつく嘘に決め、俺はインターホンを押した。
 程なくして、
「はい」
「あ〜お届け物です」
「ご苦労様。少し待って」
 10秒ほどの間。
「どうぞ」
 答えが返ってきた。
「何だったんだ?」
「きっと門に流れてる電流を切ったんだよ。さわったら最後の50万ボルト〜」
「……」
 頬を冷たい汗が伝う。
―― ここでは毎日1人はショック死してる気がする……。
 宅急便のお兄ちゃんが門に触れて……ビリビリビリビリ!……チーンってな具合に。や
はり棗同様あのお嬢様も危険だと思った。
「まあいい。よし、行くか」
 気を取り直し、ぐったりしている縁を小脇に抱えて敷地内に入る。

 気分はモンスターの子供を帰すためモンスターの巣に訪れた冒険者って感じだ。

―― さて、どうなることやら

 この後に起こるであろう予測不可能な出来事を思いながら、俺はそう思った。

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