第十六話「鬼の目にも……(後)」

 階段を上りに上ってたどり着いた場所は―――屋上。
―― 何とかは高いところが好きっていうからな
 あいつがいるとしたらここしか考えられなかった。
「ぜは〜ぜは〜ぜは〜」
 乱れた息を整えながら俺は額の汗をぬぐう。
 ただえさえ体が重いというのに、松葉杖を使っているので階段を上るのは重労働だった。
まるで50m走を50本全力で走った後のような感じだ。
―― そんな走ったことねえけどな
 と心の中で自分にツッコム。
「くそ〜。ここにいなかったらぶっ倒れてやる」
 というか階段を転げ落ちて全身打撲になりそうだから降りるに降りれない。
「さて、俺の予想は当たりかハズレか」
 ノブを捻って扉を押し開く。むっとする熱風が全身を撫でた。
「あっち〜」
 屋上は砂漠のように暑かった。幸い風があるので耐えられないわけじゃない。その場で
屋上を見渡す。
 まず目に入ったのは干された洗濯物たち。どれもが風になびいている。
―― この熱気と風ならすぐに乾くな。飛ばされる危険もあるが。棗のヤツは……奥か?
 そう思いながら屋上を少し歩く。
「いやがった」
 屋上の右角隅。そこで棗はフェンスを掴んだ格好で下を見ていた。
「自殺でもしようとしてるのか?」
 近づきつつ、俺はからかい半分で問いかける。いきなりで驚いたのか棗の身が一瞬はね
た。
「……誰が? どうして自殺するというのです? 馬鹿馬鹿しい事を言うものではありま
せん」
 いつものように尊大な口調で答えが返ってきた。だがどこかその声には、いつもの張り
というか勢いがなかった。
「そもそも、出歩けるような体ではないはずの貴方がどうしてここに?」
「あ〜ちょっとした確認がしたくてな。その、あれだ……お前が俺を3日間看病してたっ
てのは本当か?」
「……お喋りはあの二人ね」
 棗が小さくため息をもらす。
「本当なのか?」
「ええ。本当です。何か不都合でも?」
 問い返された俺は気恥ずかしくなって頬をかいた。
「いや、今までの仕打ちからは考えられねぇ行動だし、理由が思いつかなくてな」
「あ……の…だからです」
「は?」
 突如吹き荒れた風によって聞くことができず俺は聞き返した。
「同じ事を2度も言いません。私が貴方を助けた。貴方は生き延びてここにいる。それで
いいでしょう。納得なさい」
「納得できねえ。つうかよ、こっち向け」
 会話中、棗はフェンスの向こうを見たままでこちらを見ようともしない。
―― いつもなら偉そうな顔で俺を見るってのに……妙だな
「なぜ私が彩樹の命令を聞かなければならないのです? するのは私で実行するのは貴方。
ですから命令します。すぐにこの場から去りなさい」
「お断りだ」
 怒りを混じらせた声で俺は即答した。
―― 本当は立ち去りたくても立ち去れないんだが
 このまま素直に戻ると何にかはわからないが負けるような気がした。
「ポイント減らしますよ」
「勝手にしろ。どうせこの前のマイナスで0に近いんだ。減ったって変わりゃしねえよ。
とにかくこっち向け」
「……お断りです」
「ならそこにいろ。こっちから出向いて見てや――のわっ!」
 近寄ろうと一歩踏み出そうとしていきなりバランスを崩した。右の松葉杖が置いてあっ
た台形型の石に引っかかったらしい。
―― 何でこんなとこに……
 小さな衝撃だったが俺が松葉杖を手放すには十分で、限界だった足は体を支える事もで
きず、バランスを崩した俺は重力に身を任せて顔から地面に倒れた。
「くっ、この……うあ、最悪だ」
 起き上がろうにも両腕まで力が入らなくなっていた。傍から見れば腕立て伏せが一度も
できないひ弱もやし野郎にしか見えない。
―― このあと棗なら……
 きっとゆっくり歩み寄ってきて、
『無様ね』
 と絶対に、確実に嘲笑うだろう。
 案の定足音が近づいてきて、俺の前でぴたりと止まった。
―― さぁて、どんな言葉を浴びせられるかね
 俺は反撃用の言葉を考えつつ待ち構えた。
「まったく……馬鹿ね。あのまま与えた仕事をこなしていれば、このように無様な姿を私
に見せることにはならなかったでしょうに」
 が、予想に反して子供を軽く叱るような声音だった。
「俺はあんな状態で働く趣味はないんでね」
 それに対して俺は悪態を吐いた。
「最後まで終わらせれば200ポイントあげました。それを棒に振るなんて……」
「そうならそうと最初から言え。でなけりゃこんな事になってなかったぞ」
「……そうかも、しれないわね」
 棗の両手が俺の肩を優しく掴み、仰向けにしようと体をまわした。そして、棗の顔が見
えるかというところで――視界は柔らかい手のひらに遮られた。
「何の真似だよ?」
 俺の想像とまったく180度の行動の問いと目隠しの問いを同時にする。
「私の神すらひれ伏す美しい顔と太陽を一緒に見たら彩樹の目が潰れて可哀想だと思った
からです。体が衰弱していればなおさら危険でしょう」
「潰れるかよ」
「潰れます。万が一潰れなければ私が潰します」
 微妙に瞼が押される。
「おいおい、頼むから潰すなよ」
「なら私の顔を見ようとしないことです」
「へいへい」
 本当に目を潰されても面倒なので俺は素直に従った。と、不意に頭を持ち上げられて、
何かの上に置かれた。
 後頭部から感じる柔らかな感触と温もり。
―― もしや膝枕か!?
 確かめようにも体は動かず視界はまっくらで無理。下手に動けば目を潰される。俺は確
かめるのを諦めた。
―― しっかし、どういう風の吹き回しだ?
 今までで一番丁寧な扱いをされた気がする。後で何かとんでもないことを要求されるん
じゃないかと一瞬心配するも、
―― まあ、いいか。気持ちいいしな
 そんなのは要求されてから口答えするなり拒否すれば良いと思い、俺は目を閉じてこの
心地よさにしばし身を任せた。
 ポタッ。
 どれくらい経ったか忘れた頃、頬に何か冷たい物が落ちてきた。
「おい、涎こぼすな――うがががが」
 急に側頭部を襲った痛みに俺は悲鳴をあげた。俺の視界を奪っていた手の平がアイアン
クローになりやがったのだ。
「世界に冠たる法光院の姓を名乗るこの私が涎を垂らすなどというはしたない真似をする
と本気で思ってはいませんよね?」
 激痛がどんどん増していく。
「な、なら、お前……何こぼしたんだよ。まさか泣いてるのか? さっきのもそれで……」
「単なるにわか雨です」
 有無を言わさぬ口調。
「んなはずが――」
「誰がなんと言おうと単なるにわか雨です!」
 アイアンクローの痛みが極まる。激痛から逃れようと俺は必死に体を暴れさせた。
「…………………彩樹」
 アイアンクローの終わりと共に棗が俺の名を呼んだ。
「な、何だよ。お〜いて〜」
「生き延びた事……褒めてあげます。さすがは私の奴隷です」
「奴隷うんぬんは別として、助かったのはお前のおかげだろ。色々手回ししてくれたよう
だし……今回ばかりはお前に感謝してる」
 本当に俺はそう思っていた。
 いまこうして息をして、風を感じていられるのも棗が俺のために行動してくれたからだ。
いまなら桐や蘭の言っていたことも信じることができた。
 それと、視界を覆う手のひらから伝わるこの温もり。たぶん、この温もりが俺を……こ
っちに引き戻したんだろう。
「だから……その、ありがと…よ」
 たった一言。ただそれだけなのにかなり恥ずかしかった。
 恥ずかしさのあまり顔が灼熱し、心臓の鼓動が増す。手のひらで表情が隠れていてよか
ったと思う。
 数秒ほどの沈黙のあと……。
「……おい、気のせいか。にわか雨が少し勢いを増したような気がするんだが」
 頬や唇、顎とさっきに比べて"雨"を感じる頻度と場所が増えていた。数分もすれば"雨"
で顔中濡れ濡れになるだろう。
「夕立です。きっと彩樹が感謝の言葉など口にしたから天候が激変したのよ」
 棗が何かをこらえるような声で答える。
「さっきまでメチャクチャ晴れてたぞ。つうかメチャクチャ局所的な夕立だな」
「なら、どこかで大勢の狐が嫁入りでも始めたのでしょう。きっとその狐が貴方に恨みが
あって局所的に雨を降らしているんです」
「何だそりゃ?! どっちにしたって局所過ぎるっての。はぁ〜、夕立に大勢の狐が嫁入
り……ね。ま、そういうことにしておくか」
「……そうしておきなさい」
「へいへい」
 そこで会話は途切れる。
 別に涙の真意を聞く気もなかった。どちらにしても自分の為に涙を流してくれている。
それだけで……悪い気はしなかった。
―― 鬼の目にも涙……か
 不思議と口元がにやけてしまう。
 少しだけ棗に対する好感度を上げてやろうと俺は思った。
 最後に、サド女・竜泉華淋とその奴隷をどうしたのかを問うと、棗は意味ありげな笑み
を浮かべるだけで何も語ろうとはしなかった。
―― まさかドラム缶にぶち込んでからコンクリ流して東京湾に捨てちゃいねえだろうな
 訊きたくても真実を知るのが怖くて訊くに聞けなかった。

 こうして、今回の騒動は大きな疑問を残しつつも解決。

 俺も自分で驚くほどの回復をみせ、10日後に退院することとなった。

―― めでたしめでたし…………だよな?

←前へ  目次へ  次へ→