第百参話「第一の壁 其の五」

「君はあれかね? 自滅願望があるのかね? それともマゾヒストの方か? 美少女に殴られ
た結果だという事を考慮すると……うむ、後者で有力ではないかと思うのだがどうかな?」
 治療を終えた円はカルテを書きながら、そう俺に問いかけてきた。
「あのな〜、怪我の理由を事細かに説明した末の結論が何でそうなるんだよ。つうか、カルテ
にマゾと書いて二重丸で囲むな!」
 痛む左手に構わずボールペンを奪い、変態の文字を黒く塗りつぶした。
「冗談のわからぬ坊やめ。……さて、診断の結果だが、両腕に計10カ所、両足に計2カ所、
胸から腹にかけて17カ所の打撲、右手の裂傷、肋も左右込みで4本と左肩、右肩胛骨の骨
折、左下腹部に直径2センチの穴、おまけに傷による発熱といった所だ。痛む所は……と聞く
よりも痛まない所はあるかと聞く方がこの場合は適切かね、ミイラ坊や君?」
 額に氷嚢、右手と首から下は包帯グルグル巻き、全身から薬品の匂いをまき散らす俺を見
て、苦笑を混じらせながら円は肩をすくめる。
「痛いわ、熱いわで何もわからねぇ。死んだ方がマシな状態ってのはこういうもんかと痛感し
てるところだ」
 皮肉に応える余裕もないので、正直に現状を口にして俺は椅子の背もたれに寄りかかった状
態で目を閉じる。
 今、俺がいるのは円が所有する車の中だった。
 車と言っても単なる車じゃない。見た目は普通のキャンピングカーだが、居住スペースを外
科手術すら可能な治療室に改造された特別仕様だ。ちなみにサークル所有ではなく、円個人の
私物とのこと。
 無傷で済まないと最初からわかっていたので零子を通じて呼んでおき、決着がついた後に待
ち合わせ場所であるここへ茜によって担ぎ込まれた。
 そして円は俺の状態を見るや、すぐさま麻酔の後に腹部の縫合、骨折箇所の固定、傷の消
毒、打撲箇所に冷却用湿布張り付けられ、傷口の保護と湿布の剥がれ防止に包帯でグルグル巻
きにされ、最後に錠剤とカプセル剤を口に放り込んで現在に至るという訳だ。
 体は満身創痍の重体。立てと言われても今は立てる自信がない。
「軽く見積もっても全治2ヶ月。医者の立場からすれば入院して安静を進めるが……君は首を
縦には振るつもりはないのだろうな」
 ため息ひとつ、円は俺を見て口から漏らす。
「当たり前だろ。入院なんてしたら色々面倒になる」
 決闘の件はメイド女を通じて棗伝わってることだろう。が、俺の行動を察した棗は追求して
はこないはずだ。
 但し、俺が邸に帰る、動けない程の怪我をしていると指摘されないという条件がつく。も
し、帰らずに入院すれば棗は病院送りにした相手に報復するだろう。大怪我をしている事を気
づかれても、怪我を負わせた相手を言わずにはいられないから結果は同じ。
 火守が単に弱者を痛めつけるだけのゴミ屑だったなら、わざとボロボロになって入院を選択
しただろうが、強引ではあるものの騙されている生徒を救う為であり、真っ直ぐな奴だとわか
った以上は避けたい展開だった。
 かといって、全治2ヶ月という満身創痍の体で、自転車にして30分の距離を走破するのは
辛い。痛みでハンドル操作を誤って転倒する光景が頭に浮かぶ。
「つうわけで、どうにかして自力で帰らなきゃならない。しかも大怪我していると悟らせない
っていうおまけつきで。どうにかならないか?」
「どうにかするとも。依頼を受けた以上はその要望に応えるのがプロというものさ」
 自信に満ちた笑みを浮かべて、頼もしい台詞を口にした円は机の引き出しから小さな袋を取
り出す。中には青いカプセル剤が結構な数入っていた。
「これがご要望の飲めばあら不思議、痛みは綺麗さっぱり消えて動けるようになる魔法の薬
だ。調合したのは当然の如くわたしであり、その存在もこれっきりという一品。薬物が大好き
〜という連中を使っての人体実験……もとい臨床試験も済ませて効果も立証済みだ」
「さっすが天才。んじゃ、早速もらうと――」
 時間も惜しいと手を伸ばすが、円によって袋が遠ざけられて空を掴む。
「待て待てがっつくな。肝心の副作用について説明していない」
「臨床試験が終わった物を出してるって事はそれほど問題はないもんなんだろ?」
「……確かに臨床試験は10人の被験者をもって実施され、誰にも危険な副作用が現れる事は
なかった。しかし……10人が10人共に副作用の内容が異なっていた」
「どんな副作用だったんだ?」
「微熱、吐き気、くしゃみ、咳、腹痛など風邪の症状に似たものだな。ただ、誰もが10分後
には副作用が夢か幻のように綺麗さっぱり消え去ったと報告している。つまりは――」
「どんな副作用も10分我慢すりゃいいってことだろ。副作用は飲んだらすぐに出るのか?」
「報告書には最短5分、最長で4時間後とある」
「何ともでたとこ勝負な薬だ」
 俺が言うよりも先に、俺と同じ感想を口にしたのは今まで黙っていた茜だった。
「だがしかし、この薬を飲むしか坊やが自力で帰宅し、尚かつ重傷を隠し通す方法はない……
違うかね?」
「残念ながら、な」
 苦笑を混じらせながら袋を掴む。が、引っ張っても袋は円の手を離れなかった。
「おい、この薬をくれるんじゃないのか?」
「おいおい、忘れてもらっては困るな。医療行為と薬の提供はわたしにとってはビジネスだ。
死なれては困るから先んじて外傷の処置はしたが、コレを提供するには相応の対価を支払って
もらおう」
「……ちなみにいかほど?」
 俺の問いに対して円は無言で請求書と銘打った紙を突きつけてきた。そこには各処置内容に
おける金額が記され、一番最下行にある合計金額は……。
「…………」
 言葉を失うほどの額だった。前回聞いた金額でも法外だとは思ったが、今回はそれを更に上
回っていた。どこかのツギハギのある医者ですら、この金額は滅多に提示しないと思う。
「前回と比べて驚いているのなら、前回は治療も簡単な処置だけであったから、わたしの占有
時間分の料金で済んでいたが、今回はそれに加えて手術と専用車の使用、そして何よりこの薬
だ。希少な材料を使用し、わたしが持ち得る知識と施設を総動員して作成した最高傑作が安い
わけがあるまい。言っておくが棗嬢の関係者として割り引いた額だぞ」
 確かに、合計金額の上に記載された割引額も結構な額だ。しかし、請求されている額からし
てみれば雀の涙ほどといえる。
「か、仮に……支払えなかった場合はどうなる?」
「君という個人を総動員して代金と同価値の働きをしてもらうのさ。肉体労働、頭脳労働、肉
体提供、その他諸々してもらおうと思っているぞ。安心しろ、命までは取らん」
 肉体提供はきっと臓器提供で命はあっても五体満足ではないんだろうと思い、頬に冷たい汗
が伝う。頼る相手間違えたかなーと今更ながらに後悔した。
「出世払いって方法は?」
「初回の取引相手に信用なし。よって、支払期限は1週間以内というルールだ」
 打開策の初手は見事に一蹴された。
「物納ってのは?」
「サークルはいつもニコニコ現金払い」
 文字通り満面の笑みで円は金を出せと言わんばかりに右手を突き出してくる。
 想定外の金額に自力での策は尽きた。
 後は蘭と桐から金を借りるしか支払う手段は残されていない。が、その手段は使いたくはな
かった。
 理由として金の貸し借りは、恩の貸し借りよりも関係を歪ませるからだ。額が大きければ大
きいほどに、その歪みは大きくなる。そのひとつの結末を俺は親父を通じて知っていた。
―― ま、俺の置かれている状況からして、既に蘭と桐が上で、俺が下なんだけどよ
 色々と世話をやいてくれる二人、それに縁や桜を俺は友人と思っている。その関係を歪ませ
たくも、ましては壊したくもない。
「仕方ねぇか。……金はないから――」
「はいはい、それはこっちが引き取るぜっと。別に顧客以外からの支払いでもいいんだろ?」
 覚悟を決めて肉体労働を宣言しようとした俺の手から請求書をもぎ取り、茜は円に問いかけ
る。
「支払ってくれるなら誰でも歓迎するぞ。パトロンになってくれるなら尚良い」
「んなのは自分で見つけろよ。……ふむ、こんなもんか」
「ふむ、こんなものか……じゃねぇえよ! 何勝手に払うとか言ってやがんだ!」
 請求書を見て感想を呟く茜の腹に、俺は思わず突っ込みの平手を叩き込む。
「勝者への賞金だと思えよ」
「たかが喧嘩の賞金で出る金額じゃねぇっての! 0が8つもあるんだぞ! お前のご主人様
だって自由に使える金が足りないから腕力に物言わせてたんだろうが」
「その通りだが、今回は法光院に手を出したって理由で何とかなる。厳しいお叱りと減給を主
共々受けるだろうが、その程度で済む」
「男嫌いのお前の主がその提案に頷くか?」
 件の主―火守百織は車の外にいる。武器使用による反則負けにショックだったのか、外で膝
を抱えて落ち込んでいるらしい。
「頷くね。正々堂々の勝負に反する事をした負い目がある。非に対しては真摯に償うのが主
だ。もし、駄々をこねたら勝利者の権利を行使すればいい」
「あー、そりゃ別の事で使おうと思ってるから、駄目なら駄目で肉体労働でもするさ」
「はいはい、話はまとまったという事で、これが連絡先だ。今回は額が額だけに直接渡しでな
くとも構わんよ。その場合は裏面に記載した口座に振り込むように」
 手を叩いて会話を打ち切った円は懐から出した名刺を茜に渡す。桃色が散りばめられた可愛
らしい一品は、円を金と医学知識しか頭にない人物と思っていただけに何とも意外だった。
 その考えが表情に出ていたのか、
「何かね? これでもわたしは乙女なのだから可愛らしい名刺を持っていてよかろう? い、
一応結婚願望もあるのだぞ」
 と、説教かと思えば、更に意外な爆弾発言を顔を赤らめながら口にした。
「悪かった。とりあえず支払いの件がいいなら、そいつをくれよ」
 突くと危険な感じがしたので、自然な感じを装って話を本題に戻して袋を受け取る。
「仮に危険な副作用が発症したらすぐに連絡するように。無料で対処しよう」
「……どういう風の吹き回しだ?」
 何か裏があるんだろという思いと共に円を見る。
「いやなに、他人が作った薬だったなら無視か他人任せにするが、今回はわたし自らが調合し
たものだ。自分で作った薬の責任は持つさ」
「とか何とか言ってるが、薬が原因で死んだら法光院棗に抹殺されるからだろ?」
 茜の鋭く容赦のないツッコミに円は小さく呻く。
「ひ、否定はせんよ。だが自分の調合した薬に責任を持つという言葉も否定はしない。さて、
ではここで初回分の投与といこうか。これで飲むといい」
「わかった。ちなみに、これに味ってあるのか?」
 水の入った紙コップを受け取りながら、袋から青のカプセルを1錠摘む。
「無味無臭だ。飲む際には多めの水で飲めよ。お茶やジュース等は効果が変異する可能性があ
るので避けてくれ。1度の服用にカプセル1錠。効果は1回につき12時間。服用するカプセル
の量を増やしても効果は同じになることがわかっている。他に聞きたい事は?」
「使い切った時は追加分も金かかるのか?」
「おっと、忘れていた。これも追加だ」
 そう言って渡されたのは緑色の錠剤だった。見ただけで口の中が苦くなりそうな深い緑だ。
「表情に出てるが、お前が思っている以上に苦いぞ。だが子供じゃあるまいし、苦いのくらい
我慢しろ。良薬口に苦しだ」
「わ、わかってるっての。んで、こいつは何の薬なんだ?」
「自然治癒力を上げる薬だ。想定通りの効果が出れば1週間もあれば傷は完治するだろう。も
し、新薬が切れても完治していなくとも、恐らく私生活に支障がない状態のはずだ」
「これもお前の自作か?」
「その通りだ! 服用は1日1回、回復による空腹や眠気以外は副作用なし、骨折なら3日で
くっつく優れものだぞ! これのおかげで顧客が多い! 特にスポーツ選手に重宝されていて
な! 妙に復帰が早いヤツは間違いなくわたしの顧客だ! 尚かつ、他の円から提供依頼もあ
るから金はガッポリ! 研究資金に困らないの良いこと尽くめだ! この薬を閃いたわたしの
頭脳を褒め称えたい! そうわたしの口から説明するほど効果のある薬だ、安心してさっさと
飲め!」
 立ち上がった円は目をキラキラ輝かせて力説し、飲もうとしない俺の頬に錠剤をグイグイ押
しつけてくる。
「わかったって! 人気があるってんなら効果は抜群なんだろうし、早く治るってんなら我慢
して飲む!」
 奪うように緑の錠剤を取って青のカプセルと一緒に口の中に放り込む。直後、涙が出るほど
の苦みが舌に伝わり、全身に寒気と痺れが走った。今まで一番苦い薬は正○丸だと思っていた
が、少なくともその10倍は苦い。これを何も知らずに飲んだヤツは間違いなく毒薬だと思う
だろう。
―― と、とにかく飲み込んで苦みからおさらばだ!
 素早く手にしていた紙コップの水で錠剤を飲み込んで一息つく。
「あー、まだ口の中に苦さが残ってやがる。しばらくこれを毎日味わうのか」
「そんな体になるような戦い方をした坊やの自業自得だろうに。ほら、促進剤2週間分とおま
けのケースだ。忘れずに飲めよ」
「さんきゅー……って、おい、マジかよ」
 緑の錠剤入りのケースを受け取った俺は今の状態に驚くしかなかった。
 薬とケースを受け取るために、俺は立つのも困難な程に痛めつけられた足で立っていた。若
干の熱っぽさはあるものの、痛みはどこからも感じない。
 頬をつねってみると、それも痛みを感じない。まるで夢の中にいるかのような状態だった。
「どうやら効果が現れたようだな。骨や筋に問題はないから健康体の様に動けるだろう」
「ああ、これなら邸までチャリで帰れそうだ」
「いや、今日ばかりはやめておけ」
「何でだ?」
「痛みはなくなってもお前が重傷者である事実を忘れるなよ。加えて促進剤によって体は栄養
ガス欠状態になっていく。帰宅途中に意識はあっても動けないという状況になりかねない」
「けど、自力で――」
「自力で邸に帰ればいいんだろ? なら、邸の手前までオレ達が無理矢理車で連れて行ってや
るよ。んで、解放されたお前はチャリで邸に帰る。これでいくぞ」
「いや、だから――」
「オレの提案に逆らったら……意識刈り取って連れて行く」
 俺の声を遮って茜は握りしめた拳を突きつけてくる。向けられる目に冗談の色はない。
「提案に乗らせていただきます」
 どうあがいても意識を刈り取られて運ばれる展開しかないので俺は従うことにした。
「わかりゃいいんだ。そんじゃ、外でイジけてる主と合流するぞ」
 面倒なヤツだと言わんばかりのため息を吐きながら茜は出て行く。俺からしたらお前の方が
面倒なヤツだという言葉はのど元で押さえ込んだ。
「わかったよ。つうわけで、行くとするわ。治療が必要な場合はまた頼む。できればそんな展
開を避けたいところだけどな」
「坊やの思考回路的に避けられないと思うがね。ま、請われれば優先的に都合をつけるとしよ
う。もちろん、いただくものはいただくがね」
 笑みと共に人差し指と親指で輪を作った円に手を挙げて応えて俺も外に出た。


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