第百弐話「第一の壁 其の四」

 攻撃の手を休めて後ろに下がる火守を確認した俺は、止めていた息を安堵と共に吐き出しつ
つ、壁に掛かっている時計に目を向ける。
 時刻は4時ちょうど。決闘開始からだいたい1時間が経過していた。
 戦況としては攻撃禁止とした箇所を除けば痛みを発していない場所はなく、攻撃を防ぎ続け
た両腕は持ち上げるのも辛い。両足に至っては開始早々に集中的に攻撃され、今は壁に寄りか
かりながら立っているのがやっとだ。仮にこの壁がなくなったら100%真後ろに倒れる自信が
ある。
 対して火守は1時間も休まず攻撃を続けたはずなのに疲れた様子はない。妙に苛立った表情
をしている所から想像して、攻撃を止めたのは倒れない俺への怒りを爆発させる溜め時間だろ
うか。
 目線を窓へ向ける。夕日の朱が半ば黒になっている所からして、時間的にも日没まで後少し
だろう。
―― 時間的に勝率はゼロじゃないがサンドバッグな状況からして不利すぎるぜ
 目線を火守に戻す。いつの間にか顔を俯かせて何やらブツブツ呟いていた。
「何でたお……こん……おか…。こ……ってる……ない」
 3歩進めばキスさえできる距離だが、あまりにも小声過ぎて聞き取れない。聞きたくとも近
づけば一発もらって負け確定だ。
―― 何言ってたか聞きたかったが、そうもいかないか
 火守が両の拳を握りしめるのを爆発準備完了と判断し、俺は痛む足に歯がみしながら左に跳
ぶ。跳ぶといっても痛む足では体半個分程度だ。
「さっさと無様に倒れろってのよ!」
 俯いたまま火守が大声で叫び、これまでで最速の正拳突きを繰り出してたのはその直後だっ
た。拳はさっきまで俺がいた場所の後ろ―木製の壁―に突き刺さる。
 仮に動いていなければ拳は腹を打ち抜き、俺はくの字に身を折って前のめりに倒れていただ
ろう。内臓破裂のおまけまでついていたかもしれない。
 最初からこの威力で攻撃されないで助かったと心底思った。同時に、何で今になってこの威
力を出すのかが気になった。
「何で動いてんの?」
 拳を壁から引き抜きながら火守は顔だけを俺に向ける。
 向けられた表情は決闘前の親しみやすい明るさは微塵もない。あるのは怒りと……そして困
惑だろうか。怒りの理由はわかるが何に対して困惑しているのか見当もつかない。
「決まってるだろ、負けたくねぇからだよ。つうか、拳痛くないか?」
 火守の右拳は血で真っ赤に染まっていた。引き裂かれた木の壁が拳を引き抜く際に牙をむい
たんだろう。
「痛いよ! 痛いに決まってるじゃん! 血が出てるの見れば馬鹿でもわかるでしょ?!」
「いやまぁ、そうなんだがな。……手当とかしなくていいのか?」
 腕を伝い落ちる血を指さして俺は言う。
「なに? 時間稼ぎしようっての?」
「正直その考えもあるけどよ、見た感じ放っておいても止まりそうもねぇし、終わりまでやっ
てたら貧血で倒れるんじゃなかって心配なんだよ」
 この後も攻撃を続けるなら無事な方の拳も同じ事になり、そうなれば失血で命の危険なんて
可能性もありえる。敵とはいえ、死なんていう最低な結末は願い下げだ。
「はっ、心配なら次の一発で倒れてよ! そしたら戦いも終わって治療もできる、あたしも勝
って目的も果たせるし万々歳ってね!」
「それだけは断る!」
「なら、あたしも手当はしない!」
 言うが早いか火守は上半身を捻った勢いで怪我をしていない拳を繰り出してくる。
「何をムキになってんだ! てか、そこまでして俺に勝つ意味があるってのか?!」
 一瞬、背にした壁を転がって避ける考えがよぎるが、あえて俺はその考えを振り払い、その
拳を両手で受け止めた。腕から全身に伝っていく衝撃と痛みに目を閉じ、口からは勝手にうめ
き声が漏れるも受け止めた拳をがっちりと掴む。
「過去に男に欺された恨みを他人で晴らしたいって腹づもりなのか?! だったらそりゃお門
違いって――」
「黙りなさいよ! キミの言うとおり、あたしは過去に男……奴隷に欺されたっての! けど
ね、あたしはあたし個人の憂さ晴らしでこんな事してるわけじゃない!」
「だったら何のために奴隷連中を病院送りなんぞにしてる!」
「ここの生徒を守る為に決まってるじゃないの! ここに通う子の親は誰もが金と権力を持っ
てる! それを持たない奴隷が一番手っ取り早く手に入れるにはどうすると思う?」
「……お嬢様と結婚して、そうでなくとも好意を得れば手に入る、か」
 男と女という関係からすぐさま予想できた。
「ご名答。基本的に男との接点が少ないから、恋愛に関しては夢見がちな連中ばかりなの。好
きって言われて、ホイホイその気になっちゃう。……あたしもそのひとりだったけどね。ホン
ト、あの時を思い出すだけでむかっ腹立ってくる!」
「目的はわかった。んで、戦う事に意味があんのか?」
「はっ?! 今のでわからないってキミ馬鹿なの?!」
 血濡れの拳が横っ腹に突き刺さる。話す事に意識を向けすぎて防御すらできなかった。
 口から無理矢理放出される酸素、視界の暗転と浮遊感にマズイと俺は右手を伸ばすと手の平
に何かが触れた。
―― 何だか知らないがこれにかける!
 最後の望みをかけて右手に力を込めると、手の平に鋭い痛みが走った。
―― はは、こりゃまた運が良いというか悪いというか……。
 戻った視界で右手を見る。最後の望みとすがった結果、火守が作った木の裂け目を掴んでい
たのだ。火守の拳に牙を剥いた木の棘が手の平の皮膚を突き破り、流れ出た幾筋もの鮮血が腕
を伝い始める。
「あぁぁぁぁぁ!! イテェ! すっげぇイテェ!」
 大声を上げる事で痛みに耐えながら倒れかかっていた体勢を立て直す。そして、勢いそのま
ま空いていた左手で火守の胸ぐらを掴み上げた。
「あぁぁぁクソッ! 馬鹿はお前だろうが! 何で戦う必要がある! 何で病院送りにするま
で痛めつける必要がある! 欺されてるなら欺されてる証拠を叩き付けてやれば良いだけだろ
うが!」
「奴隷の誰もが馬鹿ならこっちだって楽さ! でも、力を持った家のお嬢様を欺そうってヤツ
がホイホイ尻尾出すと思うの?!」
「出させろよ! お前らにはそれが出来る権力と金があるんだろうが!」
「無いっての! あったら実力行使なんて面倒なことするわけないじゃない!」
「……え、ないの?」
 あまりにも予想外の返答に爆発した怒りは一気に霧散してしまった。胸ぐらを掴んでいた手
も緩み、それに気づいた火守は俺の手を打ち払った。
「け、けどよ、棗のヤツは――」
「自分で会社経営、しかも大成してる彼女は特別だっての! 基本、あたしらは権力と金を持
つ親の娘ってだけ。そりゃほしいものがあると頼めば金は出してくれるかもしれない。けど
ね、他人の家の奴隷を調べたいって頼んで出してもらえると思う? 仮にほしいものがあるっ
て頼むのだって限度がある。じゃあどうすればいい?!」
 火守の問いかけに俺は答えを返すことができなかった。
 いや、答えはあった。通っていた高校におけるもめ事の解決方法。手っ取り早くて、校内ル
ールによって後腐れもなかった。
 しかし、校外の人間が聞けば確実に原始的やら野蛮、ありえない、犯罪の黙認とすらと言わ
れるであろう方法……そして、火守が行き着いた答え。
「金も権力もないなら力ってことか」
「そ、茜に教わって磨き続けてきた、コレを使う事にしたってわけよ!」
 血で染まった拳を握りしめたかと思うと、火守は間合いを詰めてくる。その答えはひとつし
かなく、俺がそれを理解した時には真っ赤な拳が腹に叩き込まれた後だった。
「がっ……!!」
 油断していた所への強烈な一撃に、今まで耐えてきた膝が崩れる。
 もう堪えきれない。掴める壁も手すりも何もない。
「少しは頑張ったけど、奴隷にあたしが負けるはずがないっての」
 混濁する意識の中で勝ち誇った火守の声が耳に届く。きっと、間違いなく、絶対に勝ち誇っ
た顔をしているんだろう。それがたまらなく腹が立った。
「くそがぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!」
 声を張り上げることで体を奮い立たせ、最後の力を振り絞って俺は火守に抱きついた。火守
に対して発情……などとトチ狂ったのではなくボクシングでいう所のクリンチだ。
「ちょ、な、何してんの?!」
「今回の勝負を挑んだときから考えてた奥の手だよ。こうすりゃ攻撃は限定されるし、お前が
支えてくれるから一石二鳥ってわけだ。倒そうとしてもお前を押し倒す形にすりゃ俺は手も膝
も床に触れなくて済むしな」
 顎を火守の肩に載せた格好のまま、俺はしてやったりという声で言ってやった。
 対して火守は振りほどこうと暴れ出す。当然ながらこっちも離れまいと必死に胴着を掴む。
俺を押し倒そうとする行動に対しては、既に壁を背にする位置にしていたので壁に叩き付けら
れる事でしのいだ。
「離れろ! 離れろ離れろ離れろ離れろっての!!」
「断る断る断る! ハチマキメイドが時計や外を気にしてるって事は後少しって事だ。決闘終
了まで我慢しろ!」
 俺の言葉に火守の動きが止まる。その隙に外の様子を見た。
 天井付近にある窓から見える空は黒に染まりきっている。試合終了は間近だった。
「何で……何で何で何で?! 何のためにここまで体張ってんの!?」
「負けたくないからって言っただろうが!」
「何で負けたくないのよ!」
「好きな女と別れたくないからだろうが!」
 言ってから内心恥ずかしいと思いつつ、視界の端に右手を挙げるハチマキメイドを捉えた。
 敗北に対する怒りからか身を震わせながら火守は動きを止めている。抵抗の気配がないこと
から勝利を確信した俺は安堵の息と共に視線を前に戻し、ありえない状況を目の当たりにして
言葉を失った。
 いつからいたのか、昇降口で見かけた暗部メイドが手にした深紅の斧を振り上げてこっちに
向かって駆けてくる。長い前髪に隠れて目は見えないが、狙いは火守だとわかった。
 そもそも俺が狙いなら殺気で体が総毛立ってるはずなのだ。
―― 茜のヤツは何をしてるんだ!?
 ハチマキメイドを見る。視界には入っているだろうに、何故か斧メイドに気づいた様子はな
い。縁達も見えてなかった事を考えると見えない特殊技能でもあるんだろうか。
 とにかく、このままじゃ間違いなく火守は斧の餌食となる。
「くそっ、火守! 抵抗しないから全力で俺を振りほどけ! そんで左右どっちでもいいから
跳べ! 死にたくないなら早くしろ!」
 勝負どころじゃないと判断して俺は火守に向かって叫ぶ。情けないが火守を突き飛ばす力が
もう残っていなかった。
「信じない! 信じられるわけがない! 男の言葉なんて、男の言葉なんて……」
 俯いたまま頭を振りかぶる火守。
 そんなやりとりの中、既に斧メイドは攻撃範囲に火守を入れている。となれば俺が出来うる
行動はたったひとつ。
―― ギリギリまで引きつけて……今だ!
 振り下ろされた斧が命中する寸前に俺と火守の位置を入れ替える。
「信じられるかぁぁぁあ!!!」
 同時に今までで最大音量の怒声が火守の口から発せられ……。

 直後、俺は予想していた背部だけではなく、左脇腹にも何かが突き刺さるのを感じるのであ
った。


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